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一を感じる

「易」という字はトカゲの頭と手足を表していると言われていて、そのトカゲは色が刻々と変化するという。
そこから「易」の「経」である「易経」はその変化してゆく未来を予想する、運気を占うお経、書物と簡単にはいえそうだ。

一方「難経」という名前の鍼灸古典がある。これは難しい問題(病を良くするために知るべき)への問と解答というふうに私はずっと考えてたのだけれど

たまたま寺澤捷年さんの論文を読んでいて
「難経」の「難」はむずかしいではなく
「変わらない」「不易」という意味があるという説を知りなるほどーと膝を打った。

難経はいわゆる手首の脈から患者の体全体を診る方法を述べている。

ここからは私の推測ですが
脈をみるには不易、変わらない、星空でいえば北極星、基準となる中心をつかまえている必要がある、ということ。

その中心とは?

・医療の世界でいう統計的な平均値(血圧、脈拍)という意味の中心値があると思う。

これは自然科学的、客観的な法則定位的な中心値でありそこを中心にして安定して診てゆくことができますね。

しかし絶えず変化してゆく「易」的な世界の中から不易、中心なるものはもう一つあるように私には思われるのです。

それは「私の主観的に感じる中心とあなたの主観的に感じる中心が重なるところ」
とまずはいっておきましょうか。

東洋哲学では老子の「道」、東洋医学的には一元とか、腎とか命門とか岡本一抱子の抱いている「一」であり、
ユング心理学でいえば集合的無意識といえるかもしれない。たとえば故河合隼雄先生がいわゆる何もしないことに全力をあげているのはこの「一」にチューニングを合わせているのかもしれないと勝手に推測しています。

このあたりはロジャーズでいえばクライエントの中心に合わせてゆくセラピストの中心ともいえるし、外部に数値化しにくい感覚、けれども確かにあるように思えるもう一つの不易なポイント、中心といえるかもしれない。
鍼の神様である扁鵲さんもロジャースさんもユングさんも河合隼雄さんも同じところを掴んでいると想像すると中心を巡るファンタジーが拡がり不思議に臨床に向かうファイトがでてきたりする。

ところで最近、この中心をつかまえようとする態度は自分のからだの中心である内臓の動き、たとえば心拍をとらえようと集中する態度とどこか共通しているような思いにかられている。

心拍検出課題といって実際に機器で計測した心拍数と、本人が感じる心拍数に差が大きくなるとアレキシサイミア傾向が大きくなるのだがこのあたり近年、脳の島皮質の研究がすすんできてとても面白いところなのです。
そこからですがクライエントの内受容感覚とセラピストの内受容感覚がうまく「中心」をとらえられていないとセッションや鍼灸治療や心理セラビーはうまくいかないのではないだろうかという仮説を密かに持っていたりします。

鍼灸師でいえば自分の内受容感覚を磨くことが必要になるし、クライエントがアレキシサイミア傾向が高い場合はフィードバックに気をつける必要があるかもしれない。
あれ?何だかクライエントとピントがはずれてるなとか合ってるなーとかを「感じる」ところはこれから脳の研究とともにわかってくることがたくさんあるように思う・・・

さて、とてもとりとめもない話が続いてしまいましたが、このあたりの話は気が向けば稚拙な文章ですがまた楽しみながら書きたいなと思っております。
ご意見ご感想等またお待ちしております。




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