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食べることが苦手という話 | エッセイ

食べることが苦手だ。

それを打ち明けると、だいたいの人からは冗談だと思われてしまう。
私はよく料理をするほうで、毎日土鍋でお米を炊いているし厚さを見て微調整をしながら完璧にステーキを焼くこともできる。
外食も大好きで、休日の私のSNSにはスイーツや高価なコース料理の一部始終が並ぶ。

それでも私は、ほかの人のようにきちんと食事をすることが苦手だ。まったく食べない日もあるし、飲み会の途中で固形物が一切口にできなくなることも多い。理由ははっきりとしている。体質と給食の思い出、そして高校生までの実家での食事である。

私は朝に弱い。ベットから起き上がると決まって視界がぐるぐると回り、吐き気が止まらない。そんな体質なので、朝食を詰め込もうとすると体が拒否反応を起こして押し戻そうとし、実際に戻してしまうことも多い。この状態が、酷いときには14時ころまで続く。

学校の給食は体の小さな私にはいつも多すぎて食べきれず、「掃除の時間かかっても食べなさい」と埃の舞う教室で、同じ班の人に睨まれながら咀嚼を続けたことで嫌いになった。

加えて、実家での食事。これが1番、私の食事嫌いを決定づけた。

母は厳格な人で、1日3食、可能な限りオーガニック食品を用いた十分な量の食事を子どもに与える人だった。
これはとても真似できるものではない労力のかかる行為だし、彼女の大きな愛情だったのだろう。ただその食事が、私にはあまりにも味が薄く、そして多すぎた。

早く多く嬉しそうに食べないと母はたちまち不機嫌になり、さっと席を立ってキッチンで大きな音を立てて洗い物をする。私、姉、父、誰ひとりとして母の機嫌を損ねないように食事をするのはとても難しく、そしてそれはただ理不尽に感じた。
ほかの家族がキッチンに立つのを嫌う母との食事で、家を出るまで私は毎日少しずつ、少しずつ食事が苦手になっていった。

1人暮らしを始めて、私はほとんど食事をとらなくなった。

食べたいときにだけ食べたいものを食べ、食べたくないときには食べなくても怒られないことがこんなに幸せなことだと思わなかった。そして大学の友達や恋人などの信頼できる人たちの食事が楽しいことに気づいて、食べられる量は少しずつ増えていった。

いま、私は1日に1食、多くて2食の食事で十分だ。毎年の健康診断で問題なしと言われ、なにより心が健康だなと思う。
食べたくないかも、と言っても好きにさせてくれる夫との生活に不自由はない。食べたい時に食べたいものを食べたい人と食べる、そんな食事だけで私はよい、そう思っている。
「会食恐怖症」というカテゴライズに自分をはめるつもりはないけれど、その概念も公になり始めたことに安心した。命は尊いもので食事を残すのは行儀の悪いことだ、でも、食事が苦痛になると日々の生活が心底つらいものになってしまう。


母はというと、離婚し、子が巣立ってだんだん食事が適当になっていった。

1人で夕食前にカフェに行くなんて絶対に許されなかった行為に、母はいま夢中になっている。完璧に「母親」をしなくては、という強迫観念だったのかもしれない。

ときどき私の家に遊びにきて、油と塩が大量に使われているであろう料理を笑顔で頬張っている母を見ると少しほっとする。

私だって母だって、「きちんと」しすぎなくていいはずだ。
食事って本当は、とっても楽しいものだから。

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