インド旅行を通して残った思い出9つのこと
インド旅から3ヶ月経とうとしています。
それと同時に今年も終わろうとしています。
その間に、良いのか悪いのか、様々な物が私の身体を通過して、その分インドの詳細な記憶が、私の中から抜け落ちていきました。
それは悲しいことだけれど、同時にしぶとく残ったものも分かりました。
それを今回は記していこうかなと思います。
きむらさん
死んだ人を通る
レモンティーを配る青年
靴磨きの青年
ゲイの男
清廉な目をした物乞いの子
タクシーでの喧嘩
優しさの循環
友人の行動
きむらさん
タージマハル周辺に、「私の名前はキムラです〜」という自己紹介から始まり、その後、謎の日本の童謡を披露する男がいた。
いきなり近づいてきたし、大きな声で歌うし、私は怖い人だと思ったが、信頼するガイドが、「俺の友人なんだ、こいつちょっと変わってるだろ」と、愛しい視線をその人に向けていたのを見た。
きっとこの村では、少し変わっていても、当たり前な事として受け入れ、みんなで一緒に生きているのだろうと思った。日本では、障害を持った人が電車に乗れば、少し腫れ物に触るというか、そういう対応をするが、インドのある田舎村では、変わっている人がいても、受け入れ、一緒に生きているのだと感じた。奇形の人は、昔差別をされていたと聞いたこともあるから、詳細は分からないけど、本で、障害を受け入れるエチオピアの人々というのも見たことがあるから、まあそういうこともあるかもしれない。
死んだ人を通る
ガンジス川付近のところで、死んだ人の火葬場に連れて行ってもらった。そこには、オレンジ色の布を被せられた人が8〜9体ほど、轟々と燃え盛る長方形の焼き場の隣に、一体ずつ横たわっていた。辺りはすごく煙かった。その死体を、私たちは跨いだりなんかしたが、不思議と何も感情が湧かなかった。そこは、ただ整然と死と生の循環が行われている厳かな空間なだけであった。人は必ず死ぬ。それは世界どこでも平等に配分され、同じように一人に一つ必ず大切な人生がある。そうして、灰になった人達はガンジス川に流されていった。
火葬場を降りたら、ガイドに促されて、少しの募金をした。もっとして欲しそうだったけれど学生だからという理由で、なんだか納得してくれたようだった。募金をするのでも一苦労。
この場所を離れた後、旅を一緒にした4人で感想をそれぞれ言い合った。日本の友人は、ちょっと怖かったと言った。インド人の友人は、私と同じように、人は皆、死ぬから、なんだか生きることを大切にしようと思ったと言った。私もインド人の友人と大体同じだった。
レモンティーを配る少年
ガンジス川の目の前では、色々な人が目まぐるしく生活していた。日本人の私達は、足だけ川に浸い、インドの友人は、ヒンドゥー教だから(彼は日本で牛を喜んで食べるが)向こうの岸で全身浴びてくると言った。その間、日本人だけで、ぽつんと、地元住民が沢山いる中、二十分ほど待つことになった。最初は、物を取られたらどうしようとか警戒していたが、そんな事をする人はいなさそうだと分かった。地元の子供達が私たちを珍しそうに、キャッキャっと近づいてきた。可愛かった。その子供が着ている服は、薄汚れていた。だが、本当に楽しそうだった。そんな子達を見ていたら、ふと、1人の青年がやってきて、いきなりレモンティーとパンを人々に無償で配り始めた。1人のおじさんは、パンを二つくれと言って、青年はそのまま言う通りに二つあげていた。
その青年が配り終わって帰ろうとした時、私は、何してたの?と話しかけた。インドの友人には知らない人に話しかけられても答えちゃダメだよと言われていたが、自分から話しかける分には良いだろうと思った。そしたら、その青年は、普段から、貧しい人にこういう物資を届ける活動をしているのだそう。私の英語力があまり足りてないから、何の団体に入っているとか、なぜとか、そこらの詳細は聞けなかったが、ようは、彼は何らかの事情でボランティア活動をしている訳だった。彼はリッチなのかと思ったが、そういうわけでもなさそうだった。ただ、この村の中では、まだ仕事を持っていて、経済的に大丈夫な部類なのだろう。スマホも持っていたし、英語も話せた。レモンティー飲む?と言われて、衛生面が不安で断ったら、20円だけだから奢ろうかとまで言ってくれた。流石に申し訳なく、結局自分で買って飲んだ。意外にも、すごく美味しかった。
書いていたらとても長くなってしまったので、今日はここで終わろうと思います。ありがとうございました。
2022年は、国際をよく感じた年でした。念願なことなので、謝謝。
皆さん、寒さに気をつけて。今年1年、ありがとう。
Bye〜。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?