短編小説「了解のまなざし」

 豊橋は私に優しい男で、志穂の彼氏だった。
 最初私は彼のことを恐れていた。というのも中学校で担任に暴力を振るって退職に追い込んだ同級生に彼が瓜二つだったからだ。だが彼は素行の悪いヤンキーではなく、雰囲気に輝きをまとったクラスのまとめ役であった。そのことを私は少しずつ理解していった。
 私は幼い頃からずっと根暗なオタクであったが、高校ではなぜかクラスで一番目立つ女子のグループに入っていて、もちろん志穂もその中にいた。彼女たちは親切で、最初の日に私をお昼に誘ってくれた。以後ずっと仲良くしてくれた。私のことを下の名前で絵美と呼んだ。自然の成り行きで志穂の彼氏である豊橋とも頻繁に話した。彼はよく志穂の肩に触りながら、私に「えみえみは……」と話しかけた。
 
 体育祭の打ち上げのカラオケでは女子ばかり一部屋に集まって気を遣い合いながら過ごした。オレンジジュースは酸味が強く、飲めば飲むほど喉が渇いた。全員が無難な曲を選んでいるらしい態度にもかかわらず、流れる曲は普段の言動よりも個性をよく表していた。マイクは中々回って来なかった。身体の疲れで意識に靄がかかっていた。そんなとき、豊橋が遊びに来たのだ。ドアを開けて恥ずかしそうに彼女を探しているので、志穂は周りの冷やかし声とともに彼のところへ押し出された。何人かは彼ら二人に注目していたようだが、他は歌を聞く格好をとった。豊橋と志穂は何事かしばらく話していたが、やがて志穂が赤面しながら軽く豊橋を叩いて元の席に戻った。女子の一人が可笑しそうに声をかけた。
「豊橋、何か歌えば?」
 割り込みで次の予約を入れて、豊橋はマイクを持った。何度か彼はこのように彼女のいるこの部屋へ襲来した。彼が歌ったのはコマーシャルソングや極端なネタ曲ばかりで、どういう了見なのだろうと疑った。彼は以前私に「俺実はバンド組んでてさ」と教えてくれたが、まともな曲を歌わないせいで特別歌が上手いのかどうか判然しなかった。ただ女子たちは全員大笑いしていた。
 歌った後、彼は志穂を手招きして呼び寄せ、こっそり彼女の前髪にキスをしていた。私は彼らが羨ましくて仕方なかった。甘美な雰囲気に浸れる相手がいるなんて他のどんなことよりも価値があるように思われた。望んでも手の届かないところにある甘い果実であった。酸っぱいだなんて自分に言い聞かせるには美しすぎる理想だった。
 
 志穂は目と鼻と口が近い童顔で人懐っこく、私にも他の者にもよくボディータッチをしていた。トイレの鏡の前に立つと、彼女は髪を梳かしながらまるで写真に一緒に写るように近寄ってきて、
「ねえ絵美髪めっちゃきれい!」
と褒めてくれるのだ。
 豊橋はよく日に焼けて、高い鼻を持つ整った顔立ちをしていた。しょっちゅう私たちがお弁当を食べているところへやってきた。志穂の髪を触りながら、机を囲んだ女子一人一人に必ず話を振ることに決めているらしかった。
「みい三限の古文の発表のためにちゃんと調べてきたんだね」
とか
「ちーちゃん今日の髪型似合ってるよ」
とか。
 今日は最後私に何を言うんだろうかと構えていると、彼はこちらを向かず、少し言い淀んでからこう切り出した。
「えみえみになぞなぞ」
「なぞなぞ?」
 一瞬間が空いて、彼はやや早口に話しはじめた。
「ある村に床屋さんがいます。彼は村の、自分で髭を剃らない人たち全員の髭を剃ります。自分で髭を剃る人の髭は剃りません。さて、床屋さんは、自分の髭を剃るでしょうか?」
「え、何それ」
と千秋が低い声を出す。志穂は後ろにいる彼の顔を見上げた。
「で、答えは?」
「答え言ったらなぞなぞにならないだろ?」
 彼は若干甘い声で主張した。
「そんなの床屋の自由じゃん」
 美果が指摘したのを皮切りに、他の二人もなぞなぞへの不満を述べた。私は黙っていた。スクールシューズの下で爪先がもどかしく感じた。

 志穂は私たちのグループの中でも一人だけ彼氏をもっているために一際輝いていた。二人はクラスで発言権を持ちながらも優しいという、同級生の間では最上位の扱いをされる存在だった。ホームルームではたいていどちらかが黒板の前に立ってクラスを仕切りながら隙を盗んでアイコンタクトを交わしていた。最も恵まれた境遇にいる者としてクラスの羨望を思う存分享受していた。暖かい海の祝福された美しいイルカの番のようであった。しかし人から見えないところで彼らは諍いを繰り返していた。平穏であった時期の方が少ないだろう。志穂は他の者よりも幸せそうにしていることが多かったが、反面苦しんでいる様子も誰より目立った。何かというと彼氏と喧嘩をする。その際志穂は何があっても別れるのだけは嫌だと考えているのに、豊橋は簡単に別れの選択肢を持ちだすらしかった。
 晩夏のある日とうとう志穂の怒りが頂点に達し、美しいカップルは破局を迎えた。昼休みに志穂は泣き顔をハンドタオルで覆い、友達に囲まれ、強烈な苦しみを吐露していた。私も少々声をかけたが、あまり気の利いたことを言えなかった。徐々に女子たちが集まってきて、まるで怪我した人を見るように憐れんで同情していた。男子たちは遠くから様子を伺って、可笑しさをこらえようとしなかった。豊橋はどこかへ逃げていた。彼は集まってきた女子全員から悪口を言われていることを承知しているに違いないと私は想像した。志穂の周りには大勢の味方がいて、豊橋は直接ではないながらも一人で全ての責めを浴びせられている。私は陰湿な集団心理に嫌気が差していた。同時に茶番を演じる仲間にならざるを得ない自分の臆病さにも苛立っていた。
 五限が始まる直前に豊橋は俯きながら教室に戻ってきて、大勢に睨みつけられていた。みんなの注目も外れた掃除の後から私は彼の動きに視線を送った。
 足早に教室を後にした彼に、人目を気にしながら階段の踊り場で声をかけた。 
「どったのえみえみ」
と彼は弱々しく微笑み、相変わらず幼児にでも話しかけるような口調で私に尋ねた。
「この間のなぞなぞの答え合わせをしたいんだけど」
 彼の表情は一時停止し、口元の作った笑みは消え、まなざしが揺れたかと思うと素の顔になった。彼の取り繕っていない表情を見たのは初めてだった。
「本当に? 床屋のやつ」
「何日か考えて、他に正しいのはないだろうって答えが出た」
「マジか……」
 彼は私の頭のてっぺんからつま先までし線でなぞった。そして
「ここじゃまずいから、メッセ送る」
と言い残し、小走りで去っていった。
 
 指定された公園は私の家から近いところで、抜かりないなと感じた。まだ帰っていないらしく、制服のまま豊橋は鉄棒でグライダーをしていた。
「来たね、えみえみ」
「早速だけど」
「待った。今降りるから」
 豊橋は弾みをつけて着地した。
「座れるとこ行こ」
 木のベンチがあったので、私たちは隣り合って座った。
「何話してくれるの?」
「あのなぞなぞ、調べたら有名なパラドックスらしいね。でも自分でも同じ答えに辿り着いた。カンニングはしていない。床屋は村の、自分で髭を剃らない人たち全員の髭を剃る。自分で髭を剃る人の髭は剃らない。だとしたら、床屋の髭は誰が剃るのか。もし床屋が自分の髭を剃るなら、床屋が自分で髭を剃らない人ということになるからこれはおかしい。自分の髭を剃らないなら、自分で髭を剃る人ということになる。こちらもまたおかしいから、自分で髭を剃っても剃らなくてもいずれもおかしいことになる」
「うん。完璧だ」
 豊橋はつぶやいた後、少し笑った。
「やっぱえみえみすごいよ。一人だけちゃんと気づいて考えたんだもん」
「暇だったから」
「他の連中は暇だってそんなこと考えないよ」
 私は豊橋の見え方を眺めて言ってやった。
「豊橋もこれ知ってるってことは考えたんでしょ?」
 彼は数秒黙った。
「あんまり真面目な話とか難しいこと言うとさ、みんな嫌がんだよね。昔からこういうの考えるの好きで、本とかで調べてたんだけど、みんな歳取るにつれて、どうでもいい目先の話しかしなくなった。高校上がったら、とてもそんなこと話せる空気じゃなくなった。何でだろうな」
「格好つけてると思われるのをみんな極度に恐れているから、じゃない?」
「そうかも。ちょっとでも輪からはみ出るのを全員で抑え込んでいる。俺もキャラ的に、そういうこと言えなくなった。えみえみなら、ひょっとしたら真面目に考えてくれるんじゃないかってダメ元で言ってみた」
「そうなんだ」
「当たったな、予想」
と言って彼は今まで見せたことのない、悪そうな、本当に嬉しそうな笑顔を見せた。
「何で私なの?」
「だってそりゃ」彼は小石を蹴った。「何ていうか、えみえみ他の奴らと違うんだ、一人だけ。クラスの他の全員、俺は普通の、何も変えられない人間だと思ってる。でもえみえみは一人だけ新しいんだ。今までの時代の人間にはない雰囲気感じる。だから」
 彼は立ち上がった。
「負けんじゃねえぞ。たぶん出る杭を打ってくる人間いるだろうけど、そんなの気にすんな」
「豊橋」私は彼の目を見つめた。「それ、本当の口調?」
 彼は顔を赤らめた。
「まあ、そんなとこだろうね。普段は女子の前で乱暴な言葉使わないようにしてんだけど、これ剥がしたの、えみえみが初めてだよ」
 そこで唇を重ねられる程私たちは成熟していなかったし、汚れてもいなかった、私たちが交わしたのはただまなざしだけだった。合わさった視線の熱量で私たちは二人の一生分の結びつきを果たした。
 
 あれから十年ほど月日が流れ、私は人生の浮き沈みと幾度かの嵐を経験した。今は本当の意味での仲間を得て、信頼できる恋人もできた。彼らと交流しながら夢の実現を目指している。志穂のことも豊橋のこともほとんど思い出さないし卒業以来一度も会っていない。けれど彼のあの言葉は、ときどき私を奮い立たせる。
「新しいって、どういう意味なの?」
 あのとき聞きそびれたことを何度問い返したくても、彼はもうどこにもいない。一度だけ酔った彼からメッセージが来たことがある。送られてきた写真に写っていたのは二十代半ばにして完全におっさんと化した彼だった。爽やかさも輝きもすっかり失われ、驚くほど老けていた。自分もあの頃と比べたら同じだけ老けたのだろうかと愕然とした。
 あの日公園で感じたときめきに相応しい名前は見つからないし、青春はそういう名づけようもない感情の集積であった気がする。私の青春はあの日にあったし、今はもうない。


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