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第十五話「会話は波にさらわれるように」長編小説「15th-逆さまの悪魔-」
琴音の学校は夏休みに入った。歌羽とはときどきメッセージのやりとりをしていたが、他のクラスメイトや教師と話すことがなくなり、静かな日々を過ごしていた。ネムともしばしばやりとりをした。
二人で会ってから、ネムは元気が出たらしく、頑張る気になったとはしゃいでいた。
――学校の教室に入ってみることにしたんだ。夏季講習受けるんだ――
――学校で夏季講習があるの?――
――そう。私の学校は全員強制参加なんだよ。でも一日三時間くらいしかやらないから、出てみる――
――講習出られるといいね。でも無理しないで。いきなり力出すと疲れちゃうから――
――ありがとう。でもいける気がするんだ。完全復帰したいなあ――
琴音は自分の状況をよそに、ネムのことを心配して常に心の片隅に置いておいた。
両親が旅行に行こうと言い出した。麻理恵の一家と合同で行く計画らしかった。麻理恵は中学校を不登校のまま卒業した後、通信制高校へ入った。琴音は家出騒動後麻理恵に会いに行って真実を知ったあのとき以来、彼女と一度も会えていなかった。
麻理恵は私に怒っているんじゃないかと琴音は不安であった。だが向こうが旅行を拒否することはないらしかった。
双方の両親が、元気のない娘たちを元気づけるために計画したのだろう。言い出したのは自分の母だろうと琴音は推測した。
琴音はネムと遊んだときのようには積極的に行く気になれなかったが、断る理由もないので、言われるがままに当日を待った。
ホテルのロビーで琴音は麻理恵と再会した。久しぶりに会った麻理恵は顔の印象が変わっていた。以前は幼く見えたリスのような大きい楕円形の目が、つり上がって反抗的な雰囲気に変わっていた。身長が伸びて、スタイルにメリハリがつき、大人っぽくなっていた。
挨拶の後、麻理恵は琴音の事を凝視した。
「なんかすごい痩せたね」
「そう?」
「え、病気なの?」
「違うよ。ダイエットしているんだ」
琴音はこの頃常套句にしている嘘をついた。
「ダイエットで、へえ」
麻理恵は気まずそうに目をそらして、片手に持っている、スマートフォンではない、かなり子どもっぽいデザインの端末をいじり始めた。
あれはまだスマートフォンなどをもつには幼い小学生低学年の子たちが与えられるような子ども用携帯端末だろう。麻理恵はあんなことをしでかしたため、まだスマートフォンの使用を許可されないのだと琴音には察せられた。
麻理恵の左手首には白い中に水色のラインが入ったリストバンドが巻かれていた。琴音もスマートフォンを取り出して、そちらに目線を移した。
琴音は麻理恵一家との合流の前、両親と水族館へ行ったが、無気力さからほとんど観覧せずに外へ出てしまっていた。せっかく入場料を払って入ったのに娘が体験することを拒否するので、両親はいたく失望したようだった。
二組の家族が旅行先に選んだのは海の近くの観光地だった。琴音が連れて行かれた水族館も、その海をイメージしたものであった。ホテルは海のすぐ傍にあって、部屋からは大海原を一望できた。
両親が窓からの景色に感心しているときも、琴音はベッドに腰掛けてスマートフォンをいじっていた。何にも関心が向かない。どこまでも虚しい。
夕方、琴音と麻理恵の両親はバーベキューの準備を始めた。ホテルの一角にある専用のスペースで、グリルを囲み、炭を着火させた。母とその実兄の伯父を中心に、世間話をしながら早くも盛り上がり始めていた。娘たちは少し遠くからそれを眺めていた。
やがて大人たちは具材を焼き始めた。トングで肉や野菜をグリルに載せ、火を通す。香ばしい、焦げ臭い匂いが辺りに広がった。白い煙が充満している。
母が皿を持って琴音に近づいてきた。
「まずはこれ食べて。ご飯は伯父さんたちのテーブルにある炊飯器にたくさん入っているから」
と言いながら割り箸と、肉とタマネギが載った紙皿を押しつけるようにして琴音に渡してきた。
「まさかここまできて食べないなんて言わないよね!?」
母は一瞬だけすさまじい形相を見せた。琴音はひるんでしまった。
食材、特に肉が焼けるときのおいしそうな匂いが鼻から入って胃を刺激していた。琴音の病気を知らないであろう伯父夫婦の目が気になる。母に逆らうのも怖かった。この楽しげな雰囲気を自分一人のせいで壊してしまう勇気が琴音にはなかった。
一口だけ焼き肉を食べてみた。すると食欲が一気に戻ってきた。お腹の中が激しく動く。肉を噛むうちに白いご飯が食べたくなった。琴音は席を立って、炊飯器から自分でご飯をよそって食べ始めた。ずっとまともに食べていなかったので、気持ち悪くなると思ったが、胃は久しぶりの本格的な食事を歓迎し、食べれば食べるほど食欲が湧いてくる。
琴音はとうとうお腹いっぱいになるまで食べてしまった。抑えが利かなかった。母は旺盛に食べる娘の様子を見て、数ヶ月ぶりに笑顔を見せた。
安堵したのか母は大人たちの会話の中心を担い、アルコールを迷いなさげに身体に入れていった。両親も伯父夫婦もたくさんビールを飲んで、目一杯食べ、会話を盛り上げていた。
琴音はプラスチック製と思しき白い椅子に腰掛けて背もたれに寄りかかり、満腹のお腹を抱えて途方に暮れていた。そこへ麻理恵が近づいてきた。
「食べ終わったの?」
「お腹いっぱいで、もう入らない」
「あっちで二人で話しない?」
麻理恵は浜辺を指した。
「あの人たち酔っ払ってうるさいから、離れようよ」
二人は大人たちに、浜辺の方へ出てみる許可を得た。そして二人でバーベキュー会場を離れ、浜辺へ降り立った。
二人は波打ち際をゆっくり歩いた。波が一定のリズムで近づいては離れていって、その様子はどこか呼吸に似ていた。波の音は吐息だ。
何を話したらよいか、琴音は会話の糸口を探した。話すべきことが多すぎて、却って何から話したらよいか分からなかった。
謝らなくてはならない、と思った。しかしそれだけの勇気が出てこない。
すると麻理恵が口を開いた。
「学校、どう?」
琴音はため息をつきかぶりを振ってから答えた。
「うまくいかなくて、結構休んじゃってる」
「ウチ、琴音は絶対頭いいH高行くと思ってた。N高だって聞いてびっくりした」
「色々あったんだよ」
「へえ」
麻理恵は機嫌が悪いようにさえ聞こえる投げやりな声で返事をした。詳細を打ち明けない自分に苛立ったのだろうか? 琴音は麻理恵の横顔に目をやった。彼女は真っ暗な中にいるのに眩しそうな顔をしていた。
「麻理恵はどう?」
「寂しいよ。毎日家にいて独りぼっちで、教科書見ながらレポート書いて。学校へはたまに行くけど友だちも何もできないし」
「そうなんだ」
「パパもママも、ウチにすごい気を遣っていてさ、そうっとしか接してこないの。つついたら壊れるとでも思ってるんじゃないかってくらい、そうっとそうっと話しかけてくるの。で、何を言ってもポジティブな返事しかしないの。嫌になっちゃう」
「うちとは正反対だね。私は叱られてばっかりだよ」
「あーあ、寿馬はどこにいるんだろう」
琴音は耳を疑った。
「もう会わないことになったんじゃないの?」
「そうだけど、でもウチは会いたいよ」
麻理恵は上を向いた。空を見ているのかもしれなかった。
「会いたい。なんで会えないんだろうと思う、こんなに会いたいのに。本当にもう、会えないのかな? ねえ」
「あんなことされて、傷ついてないの?」
「傷ついてないわけないじゃん! ウチどんな気持ちだったと思ってるの? もう、もう全部嫌だよ。何もかも」
麻理恵は最初怒った調子だったが、段々と言葉に涙が混じっていった。
麻理恵の左手の拳が数秒握られた。その手首に巻かれたリストバンドから、数センチメートルだけ隠しきれない傷跡が見えていることに、琴音は再会したそのときから気づいていた。紛れもない自傷行為の痕跡であった。
麻理恵が泣き出したので、琴音は一緒に立ち止まった。掛ける言葉が見つからなくて、ただ黙っていた。
しばらくして、落ち着いた麻理恵は涙混じりの声で会話を再開した。
「でね、親には言ってないんだけど」
「何?」
「ウチ、ネットで彼氏募集してんの。……だってさ、寂しいんだもん。彼氏いないと嫌なんだもん」
「さっきの子ども用携帯でそんなネット繋がるの?」
「家にあるタブレットでやってる。親はほとんど使い方分かってないから、履歴消せばいくらでもできる」
「やめなよそんなこと」
同じことを繰り返したらどうするのだと言いかけて、残酷すぎるように思え、言葉を飲み込んだ。
「どうしても彼氏ほしいの。でも、絶対セックスしないっていう条件を言うと、一人残らず去っていく。もう男信じられないよ。でもやめられない。寂しいから」
「だとしても絶対やめな。今そんなことしても、傷つくだけだよ」
「そんな風にしか言ってくれないなら、この話しなきゃよかった」
麻理恵は苛立たしげに波へ向かって思い切り砂を蹴った。
琴音の気持ちは自己嫌悪に沈んでいた。麻理恵には説教でもするようにあんな正論を言ってしまったけれど、私自身、全然うまくいっていないし、きっとよくない選択肢を選び、正しくない道を歩んでいる。こんな私に言われても、全く説得力がないだろう。
二人とも黙ったまま、琴音と麻理恵は気まずくバーベキュー会場へ戻った。琴音はすっかり意気消沈し、後悔と憂鬱の中に沈んでいた。しかもここへ来て、いきなりたくさん食べたことによる気持ち悪さが起こり始めていた。