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第十八話「舞台に私の席はない(中学校の思い出)」長編小説「15th-逆さまの悪魔-」

 中学時代、琴音は顧問を激怒させたあのとき以来、部活で一度も本番の舞台に出してもらえなかった。身体が回復して十分に演奏できるようになっても一向に認められなかった。表向きは、琴音が本番中に過呼吸の発作を起こすことを危惧して、ということになっていたが、実際には顧問から琴音への懲罰であることを、琴音本人だけでなく部内の誰もが知っていた。


 夏から秋にかけて数回あるコンクールのときは、出番の少し前に部員たちが舞台裏に入ると、琴音は一校分ガラリと空いた座席に一人だけ残され、やがて光を浴びた舞台の上で他の部員が演奏するのを眺めた。とてつもなく寂しかった。


 一方で、ある本番のときに、観衆側として聴いて気がついたことだが、琴音が聴く限り、T中学校の演奏は他校との演奏と比べて明らかにレベルが低かった。強弱がついていなくてメリハリがなく、テンポが一人一人合っていなくて旋律が散らかっていた。和音も綺麗に響かず不協和音ばかりな上、一致するはずの長音の初めと終わりのタイミングがバラバラだった。琴音には、自分のT中の演奏が聴いたうちの学校で一番劣っているように感じられた。


 やはりT中の結果は振るわず、その年も銅賞だった。


 帰りのバスで、ある保護者からの差し入れの栄養補助ビスケットが配られたとき、豊子がわざとパート員の分を琴音に取りに行かせた。


 顧問は琴音を見るなり

「あなたは本番出てないでしょう? そんな人の分はありません」


 と他の部員全員に聞こえるような大声で言った。琴音が


「私の分じゃなくて、トランペットの他の部員の分です」


 と言おうとすると、顧問はそれを無視して遮り、


「これはきちんと本番に出て、活躍した人たちのための差し入れです。何もしてないのに、自分ももらおうなんて図々しい真似はやめなさい」


 とまた大声で続けた。


「パートの、他の部員の分を取りに来たんです」


 琴音が改めて言うと、


「あなたじゃ信用できない。こっそりポケットに入れる気なんじゃない? 豊子ちゃんに取りに来てもらいなさい」


 と言われたので、琴音はそのまま席へ戻った。豊子は満面の笑みで代わりに取りに行った。こうなることを期待していたから、目論み通り琴音が怒鳴られて嬉しいのだろう。他の部員たちの前で大声であんなことを言われて、琴音は恥ずかしかった。


 もらえるとは思っていなかったので驚きはなかったが、顧問と豊子が自分のことをいちいち傷めつけないと気が済まないことに傷ついた。


 ビスケットを食べながら、「今年こそは全国行きたかったのに」と悔しがる部員たちを琴音は白けた思いで眺めていた。あんな演奏しかできなくて、よく全国大会に行けると本気で思えるものだ、と。どんな目に遭わさせるか分からないので、口に出すことは一切なかったが。


 顧問が後で、他の部員には内緒で、豊子にだけ余ったビスケットを一個か二個あげることも琴音は知っていた。豊子と扱いの差をつけられるのは、当然のことなのだから理解しなければならない。琴音は言外にそう強いられていた。


 賞も他校も関係ない最後の文化祭くらいは、顧問もさすがに参加を認めるだろうと思ったが、しかし楽譜を渡す際、言われたことはいつもと同じだった。


「植田は本番出ないから、一応サードで練習しておいて」


 琴音はせめて現役最後の舞台は練習を無為にせず出演したかったので、活動時間が終わった後、顧問のところへ出向いて願い出た。だが顧問は


「植田には任せられない」


の一点張りだった。


「でも引退前最後なので、参加したいです」


「植田には任せられない」


 と顧問は琴音の言葉を遮って繰り返した。琴音とは目を合わせず楽譜の片付けをしながら言う。


「舞台の上で演奏中に具合悪いとか言われたら対処できないから。もしそうなったら今年のフォームの最後の合奏が台なしになるでしょう」


 琴音は落胆して黙っていた。すると顧問は

「でも本番出ないからって練習サボるのは許さないから。また具合悪いでーすとか言って怠けるようならこの部屋から出て行ってもらいます。この間約束したの忘れてないよね?」


 と付け加えた。


 一人だけ舞台に出るという目的も成果もないままに、ただ練習だけは怠けず行えというのは、相変わらず琴音に対する酷な命令であった。そんな状況でモチベーションをもてという方が無理がある。どうせ本番に出られないから披露することはない。しかもどれほど練習しても顧問は合奏練習のときに琴音の演奏に執拗に難癖をつけ、琴音を一人だけ立たせて何度も吹かせ、やる気が全く感じられないとか不誠実だとか言って部員に相応しくないと全員の前で断じる。最初から決まっていることだ。


 それを思うと正直琴音はマウスピースを口に当てるのにもかなりの抵抗感を覚えるほどであった。やりたくない気持ちを無理やり捩じ伏せて練習していた。


 だが顧問が琴音の気持ちを無視した命令をするのは今に始まったことではなかった。顧問の琴音に対する態度はいつも氷より冷たかった。


 琴音には弛まぬ練習を命じたにもかかわらず練習中度々


「本番で出る音を確かめたいから」


 と言って顧問は琴音を一人、合奏する部屋から廊下へ追い出して扉を閉めた。閉めるときの彼女の半袖の白い裾が琴音の目に焼きついた。


 追い出された先の廊下で、練習している曲を演奏したら、琴音の出す音が合奏に混じってみんなの迷惑だと豊子に叱られて以来、琴音は基礎トレーニングだけをやりつづけた。普段行う楽譜だけではすぐに飽きてしまうので、一年生のときに使っていた、音を出す練習の楽譜を取り出して吹いてみた。部員のうちの優しい誰かが自分の悲哀に気づいてくれることを期待しながら。


 しかし誰も気づかなかった。いや、もしかしたら顧問の仕打ちに呆れていた部員がいたかもしれないが、琴音の耳に同情の声が入ることはなかった。


 廊下で一人譜面台に向かい、指でピストンを音階の順に押さえながら遠くに聴いたいくつもの曲は自動的に惨めな気分を引き起こすので二度と聞きたくなくなった。数分で終わる基礎トレーニングを何時間も繰り返さなくてはならず、それを行わなければならない合奏練習が毎週あった。やることにあまりに飽きて飽きて、気が狂いそうだった。しかし琴音の苦しみを顧問が慮るわけがなかった。


 文化祭当日、舞台に出る吹奏楽部と合唱部とダンス部の部員以外、全学年がクラスごとに列をなして座る観客席に琴音はいた。本番の演奏が始まったとき、舞台の上の、自分以外全員揃った吹奏楽部を目の当たりにして、琴音は予想していたよりもつらい気持ちに苛まれ、泣き出しそうになった。しかし泣いたらあらゆる人から怒られるから力を振り絞って堪えていた。


 全部の曲で主役となれるソロの部分を与えられているために、演奏中何度も舞台の一番前に登場する豊子を見たり、自分と違って他のパートの三年生の部員は一人一人何かしらの目立てる見せ場を一回は与えてもらっていることに気づいたときなど、時折抑えた感情が限界を超えて喉からうめき声が漏れ出てしまったが、楽器が奏でる音色によって掻き消されて誰にも気づかれなかった。


 吹奏楽部の出番が終わってから、琴音はどうすればいいか分からなかったが、一応部室に向かった。扉を開けると顧問が話をしている途中だった。部員はほとんど全員泣いていた。琴音はなるべく目立たないように近づいて集団の後ろに加わった。


 三年生の引退前最後の演奏が終わった寂しさと顧問のいつになく優しい態度に感動している部員たちの雰囲気に、琴音は入れなかった。誰も彼女を気にかけず、琴音は自分の存在は場違いなのだと悟った。しかし出て行くわけにもいかず、ただ豊子や顧問になじられるのを恐れながら表情を硬くし、目立たないよう存在感を消していた。


 顧問が促して、それぞれ泣く者の肩に手をやったりハンカチを顔に当てて見合ったりしながら散り散りになって道具を片付け始めた。琴音はこの雰囲気なら自分も混じれるだろう、と少し安心し、自分のパートのところへ行って譜面台を運ぶのを手伝おうとした。すると涙している豊子が憎らしそうな顔をして小声で


「馬鹿じゃないの?」


 と怒りの言葉を投げつけてきた。琴音が反応に困っていると


「返して!」


 と大袈裟な素振りで琴音の手から譜面台を力づくで取り上げた。パートの後輩たちは同じく泣き顔のまま一人ずつ順番に琴音を睨みつけた後ひそひそと話をしながら琴音の前から去っていった。


 本番の直前、吹奏楽部の動きに加わらない琴音に対して同級生たちは


「部活やめたの?」


 と琴音が答えきれないくらい代わる代わる尋ねてきた。その度琴音は体調を心配されて出してもらえないだけだと説明した。しかし状況を理解されなくて、みんなの中で彼女の情報は更新されず、周囲からは引退直前に吹奏楽部をやめたのだと認識されていた。


「植田さん、部活やめたんだ」


 とどこかから噂される声がした。そう話しているのは一箇所だけではなく、学年全体が、吹奏楽部のはずなのに舞台に出ない琴音のことを勝手な想像で噂していた。勘違いされることへの悔しさとともに、自分が誰が見ても不自然な立ち位置に置かれていることを琴音は実感した。


 顧問が勝手にやっている仲間はずれの責任は、琴音が取らなければならなかった。

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