第三十一話「ありふれた一日のはずだった」長編小説「15th-逆さまの悪魔-」
麻理恵と遊んだ日から五日ほど経った。この日も琴音は昨日までと似たような気分で一日を過ごしていた。バス停から無理をして十数分ほど歩き、学校へ着く。席に座って理解したりしなかったりしながら授業を受ける。体育の授業はもはや定位置となった体育館の端の、マットが重ねて置かれている横に座って見学する。
いつもと何も変わらない、ありふれた一日に思われた。
昼休みは歌羽の必死のお願いを躱して、ゼリーを一口だけ飲んで鞄にしまう。これは家に着く前にコンビニのゴミ箱に捨ててしまうのだ。いつもそうしている。
歌羽がお弁当を食べ終わるのを待つ。
「なんか頭が痛いな」
「そりゃ食べてないからだよ」
「そうかな」
「決まってんじゃん。もう少し食べてほしいな。食べてくれたら、すごく嬉しいんだけど。頭痛の形で琴音の身体が悲鳴を上げてるんだよ」
琴音は話題を変えることにした。
「リーダー(英語の教科名)の宿題、終わった?」
「終わるわけないじゃん! 何あの量。私真面目に一時間半くらいずっとやったけど半分も終わらなかった。おかしいよね」
「おかしい」
「平日にあれ全部って無理あるよね。堀井、何考えてんだろ。琴音は終わった?」
「終わってない。私もちゃんと時間取ってやったけど、とても終わらなかった。あれで終わってないからって怒られるんなら嫌だな」
「嫌だよね。理不尽だよ」
琴音は思い出してストレスを覚えた。高校生活はやることも求められることも多くて、毎日雁字搦めだ。健康を損なっていることに伴って、学校の様々なことが琴音には不可能なことになってしまっている。
だが愚痴を言い合えるのは安心である。琴音は宿題が終わらなかったのが自分だけではないと知り、落ち着くことができた。関係の中に様々な問題を抱えているにしても、歌羽が傍にいてくれるのはありがたい。
一方琴音の頭の中にはどんなときもネムのことがある。いつも頭の片隅でネムのことを考え、戻ってきてくれることを願い続けている。一定の注意力とエネルギーを、琴音はそこに注ぎ続けている。
今日も苦しいままに一日が過ぎていく。何も変わらない。
そう思っていた。
放課後、歌羽と並んで歩きながら、学校の正門を出る辺りで特に意識することもなくスマートフォンを確認した。
琴音は一瞬飛び上がりそうになった。目の前が激しく揺れる。
通知欄に、ずっと待ち望んでいた、ネムのブログの更新の知らせが届いていたのだ。
即座に巻き起こる激しい感情に心臓は苦しいくらい大きく脈を打つ。
そこである恐ろしい予感が生まれた。
これがもし、ブログ引退のお知らせだったらどうしよう。
吸いにくい息を吸い、吐きにくい息を吐いて、琴音は恐る恐るブログを開く。
「どうしたの?」
様子が変わった琴音を見て、歌羽が怪訝そうな声を出した。
「ちょっと今大変だから、待ってて」
長文が表示されている。タイトルは「ただいまネット世界」である。
「今日退院しました。生還しました(敬礼する絵文字)。ろくに説明もできないまま長期間留守にしてしまって本当にごめんなさい。私はあのとき自殺を図ってしまいました。睡眠薬をたくさん飲んで、朦朧とした状態でカミソリで手首を切り、お湯を溜めたお風呂に腕を浸すということをしてしまいました。お母さんに見つかって無事でした。私はそのまま保護入院になってしまいました。多くの人に心配を掛けてしまいました。本当にごめんなさい。胃洗浄は本物の地獄でした。終わってからもしばらく苦しかったです。でも少ししたら回復しました。お医者さんと何度も話し合って、正直喧嘩もして、退院できるよう頑張りました。深く反省しました。「君には理性があるじゃないか」とお医者さんに言われました。もうやらない、と子どもみたいに指切りもしました。やっと退院が許されました。帰宅して、入浴よりも食事よりも先にこの記事を書いています。こんな私ですが、またヨロシクお願いします。
読者の皆さま、特に友だちのKちゃんには深く謝罪しなければならないです。自殺を図ってしまったことを、本当に後悔しています。私の周りには、私を大切に思ってくれる方が確実にいるのに、あのとき学校の嫌な男に言われたことだけで目の前が埋もれて、頭の中が全部それに染まってしまって、衝動的によくないことをしてしまいました。すごく心配かけたと思います。本当にごめんなさい。Kちゃん、もしまだいるなら、ラインください。待ってます!」
琴音は目の前の景色が洗い清められるようなすがすがしい感覚を覚えた。
「やった!」
「なんかいいことあったの?」
「一番いいことだよ!」
喜びが身体を満たしていく。弾け飛びそうだ。喜びが大きすぎて喜びきれない。琴音はバス停について歌羽とバイバイするなり即ネムにラインを送った。
――おかえり!待ってた――
すぐに返信がある。
――琴音!ありがとう(号泣する顔文字)――
すぐに「Thank you!」の文字がある猫のキャラクターのスタンプが送られてきた。
――私のせいで、ずっと話せなくてごめんね。待っててくれて本当に嬉しい――
――待ってないわけないよ。今日は一番いい日だよ――
そう書いて送ってから、本当にそうだと琴音は改めて実感した。今まで毎日クジを引いて、どの日もみんなハズレだった。今日も平凡な苦しい「ハズレ」だと思っていたら、「大あたり」の日だったのだ。
――私も琴音と久しぶりに話せて、すごく嬉しいし楽しい。退院したのもあるけど、琴音と話せたから、私にとっても今日は一番いい日だよ――
二人の話はいつまでも尽きない。戻ってきたネムと、琴音は時間を忘れて話し続けた。我慢していた分、二人とも相手を繋ぐインターネットから離れたがらなかった。
冬の始まりの風が家の外に吹き付けてる。琴音がベッドに寝転がっている二階の部屋の窓からは帰り着いた住人たちを静かに飲み込んだ家々の一部が覗かれる。地上は次の季節が始まるのを知っている。澄んだ空には星が散らばっている。空の下には、無数の人生が輝いていて、琴音もその一つなのである。今夜の歓喜した琴音の様子は上空から見ても小さく光って見えるように純粋な幸福である。
翌朝、琴音はベッドから起き上がることができなかった。
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