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中編小説「一番星の影」

 舞台の照明は常に笹ノ内ささのうち恵太郎けいたろうを煌々と照らし、全ての観客の視線は黒と紫で彩られた彼のスーツに注がれている。

 周りに見える女性ファンたちは誰もがよそ行きの格好をしていて、恵太郎さんを見て恍惚と顔を綻ばせている。私は不安を打ち消そうと必死に祈りながら他の観客と一緒に腰を揺らして手拍子する。
 舞台に視線を戻せば、私の一瞬の心の揺らぎなど、問題なく掻き消えてしまう。彼のメロディ、彼の歌声、彼の音楽、彼の世界。笹ノ内恵太郎はライブ会場に自分の王国を作る。自分の歌声によって観客を妖しげな王国に招き入れる。
 その声は歳を重ねても透き通って淀みがない。声質は確かにこの曲の音源を録音したときの若いときのそれとは違う。しかし、より深みと色気を纏った独特のものになっている。豊かで艶やかなバリトンボイスだ。多くの人は、彼の名前と顔を伏せて声だけ聞いても、すぐ笹ノ内恵太郎の声だと識別できるだろう。高音もよく伸びて、聞き惚れさせずにはいられない。
 壮年から老年に差し掛かっても、歌と演出に関して衰える様子は見せない。彼の努力、それも人に見せない努力と執念の賜だ。どんなことがあっても、笹ノ内恵太郎は本番の品質に妥協しない。
 曲に合わせてこの場の主役は軽くダンスする。肘でリズムを取りながら両腕を遊ばせ、軽やかに両足でステップを踏み、ポーズを決める。革靴の先が木製の床を蹴る足音が小刻みに響いて曲に花を添える。自身が楽しんで、昂っているのだ。鋭い目つきと眼光は真剣さと愉快さを両方感じさせる。口元に欲情したような獰猛な笑みを浮かべて、身体が勝手に動き出してしまうと言わんばかりに、自分が欲しいだけ踊る。
 やがてマイクスタンドを片手で抱えながら暗い舞台中を好きなように移動し始めた。舞台の端へ寄ったり、セットの木箱の上に乗ってみたり、観客を一人選んで指を差しアイコンタクトを飛ばしたり、颯爽と動き回る。スポットライトごと観客の視線を縦横無尽に動かしてみせる。
 曲はもうクライマックスだ。一人の女性への一途な想いを情熱的に歌い上げてきて、いよいよ歌詞の最も真実なところに行きついた。彼は陶然と酔いしれているようだ。観客も、コーラスたちも、伴奏者たちも、全員感銘の内に彼の王国で雲の上の景色を、その幻を見る。
 快感と陶酔が頭の上から降ってきて、心臓に着地し、身体全体を痺れさせ、震わせながら全身隈なく、指先爪先まで行き渡る。意識は一瞬停止して、次の瞬間、生まれ変わった自分を見い出す。
 嗚呼、本当の悦びは、確かにこの世に存在するのだ。私たちはそのことを、彼の王国で今知るのであった。
 曲が終わると、豊潤なる余韻の中で、彼はお決まりの台詞を叫ぶ。
「お前ら一番星になれ! 夕空に真っ先に輝く一番星になれ!」
 星、もしくは一番星が彼のトレードマークだ。一番星は若い頃にリリースされた、彼の一番のヒット曲のモチーフだったが、もうすっかり笹ノ内恵太郎といえば星、一番星というイメージが出来上がっている。ファンクラブ名は「Stars」だ。
 観客は拍手と歓声を束にして彼に投げかけ、それに応える。恵太郎さんは満足げに笑って両手を頭の上に伸ばし、ファンたちの声を受け止めた。
「サンキュー、サンキューみんな」
 そう言って彼は投げキッスをした。観客は歓喜してもう一度拍手し、大声を出す。落ち着いてきた頃、彼は急にマイクに口をつけて、次の曲のタイトルをコールする。途端に観客たちは静かになって、再び演奏が始まった。恵太郎さんは右足でリズムを取ってから歌い始める。その動作はまるでマイクに口づけでもするようだ。今度の曲はリズミカルで軽快なナンバーだった。耳の中に、彼の別の物語が流れ込んでくる。身体の中が全部塗り替えられていく。
 彼の王国。笹ノ内恵太郎の音楽。

 彼はみんなの恵太郎さんだけど、私だけの恋人だ。ただし、不倫だけど。

 ライブは大盛況の中、幕を閉じた。
 会場のあらゆるところに彼の声の名残りが残っている。私の耳の奥にももちろん存在している。
 夢から覚めたような心地だ。会場の外に出ると現実の生ぬるい空気が戻ってきて辟易とする。どうして日常というものはこんなにも味気ないのか。
 チェキを撮ってもらうために並ぼうと移動する、抽選で当たったらしいファンたちの間をすり抜けて、狭いエレベーターに並んで乗った。エレベーターは満杯で、その中身は全員今回のライブに訪れたファンたちだ。小声で感想を言う五十代くらいのマダム二人組も、私より明らかに若い大学生くらいのロングヘアの女の子も、ファングッズである紫色のTシャツを着た短髪で太り気味な、中高生の子どもがいそうな年格好の女の人も、一人一人が満たされた顔をしている。
 見回すと、それぞれにファンとして熱心そうな印象を覚えるが、この人たちは舞台の下からでないと恵太郎さんに会えないのだ。ライブに駆けつける熱心なファンたちであっても、誰一人としてそれ以上のことが叶う人間はいない。しかし私はもうすぐベッドの中で彼と肌を重ねられる。チェキなんかではなく、恵太郎さん本人を自分のものにしている。ここにいる全ての人がいくら望んでも叶わないことを、私は現実にできるんだ。
 唯一無二の恋人として彼の傍まで行けることがどれほど貴重なことか、会場を埋め尽くす人数を見ると意識せずにはいられない。私は今から数時間後、その特権を行使する。

 会場の外に出れば、街はもう眠りかけていて静かだった。午後十時を過ぎて、ほとんどの店はシャッターが閉まっている。人の声や足音も聞こえない。車の走行音だけが時折通りに響く。街灯の下の夜道を駅まで歩いて行って、客待ちしていたタクシーに乗り込んだ。ホテル名を告げたら運転手は了解したらしく、即座に車を発進させた。
 後部座席に向けて取り付けられたディスプレイにはビジネスパーソン向けのCMが流れていた。画面は鮮明に映っているが、音はほとんど聞こえない。耳に雨音が聞こえたのでリアガラスを見れば、雨粒がガラスの外側を伝っていた。一瞬後、ワイパーが動く音が聞こえ始めた。
 こんなことをしていてよいのだろうか。よいはずがない。私の未来が全く見えない。いつまでもバレずに関係を続けられるわけがない。露見したら、私たちはどうなってしまうのだろう。
 私は別のことを考えようと努めた。そのことは考えたくない。特に、彼のライブの後であり、会える直前でもある楽しくあるべきこの時間に、そんなことを考えて苦しむのは嫌だ。別の楽しいことを思い出そうと必死に試みた。
 だが頭に浮かんだ不安を振り払おうとすればするほど、逆に意識の全てがそちらへ向かってしまう。
 こうして思考と戦い、徒労を味わうのは、もう何度目だろう。彼と付き合い始めたそのときから、ずっとこの不安と戦ってきた。勝てたことは一度もない。恐ろしい予感は私を捉えて放さない。
 不意に全てから逃げ出したくなる。楽になりたい。解放されたい。だが実際には、私は何一つ捨てられないのだ。
 恵太郎さんは、彼からの愛は、私に必要だ。それを失ったら、生きている意味がない。彼の恋人であることだけが私の存在意義を保証している。

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