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第十六話「楽しめない旅」長編小説「15th-逆さまの悪魔-」

 夜中、両親が二人とも眠りにつくのを琴音は密かに待っていた。ずっと寝たふりをしていた。父と母の寝息が寝入った後のものと思しき穏やかな音になるのを確認して、そっとベッドから抜け出た。

 忍び足でバスルームへ入った。光で両親が起きてしまわないよう、電気をつけたらすぐドアを閉めた。

 バーベキューでお腹いっぱい食べてしまった分を、どうにかしなくてはならない。消化する前に吐き戻す必要がある。

 琴音は少しためらったが、右手を口の中につっこんだ。自分の手は温かくて苦い。思い切って奥までつっこむと、喉に触れる前に最初のえずきが起こった。思わず手を口から出した。

 これは考えていた以上に難しいかもしれないと琴音は悟った。

 再び、今度は躊躇いも少なく手を口に入れた。指先で喉に触れようとすると、無意識のうちに喉が逃げてしまい、顎を引く体勢になった。無理矢理喉に触れるとまだえずきが起こった。頑張って耐えて、喉の奥の気持ち悪さが起こる箇所を探そうとするが、喉は遠いし手は口の中を探るには大きすぎて、うまくいかない。えずきが起こって、ときどき手を口から出してしまう。

 琴音はかなり粘ってわざと吐くことを試みた。しかし上顎や歯茎に爪が当たって傷がつくだけで、吐けなかった。唾液は口からしたたり落ちて、床に溜まる。右手は肘まで濡れていた。

 やがて口を大きく開けているのが限界を迎えた。耳の下が痛くて、どうしてもこれ以上吐き戻しを試みることができなかった。

 琴音は無理をしてもう少し頑張ったが、仕方なく諦めた。腕を洗って、口を濯ぎ、辺りを拭いて、ベッドに戻った。顎も口内も喉も痛かった。右手は歯でひっかいてしまってところどころ赤くなっている。当然そちらにも痛みがあった。

 食べてしまったことへの後悔と、あれだけ苦労したのに結局吐き戻しができなかったことへの苛立ちで琴音は眠れなかった。右手には、口の中で唾液にまみれながら固いところや柔らかいところを探っていた感触が消えない。

 麻理恵のことも思い出した。あの子はかなり怒っていた。仲直りできるだろうか。ずっと麻理恵の自分に対する気持ちを想像していたが、会って数時間で仲違いしてしまって、琴音は落胆していた。

 私は麻理恵に対して罪を犯した人間だから、嫌われて当然だ。

 そう考えると、琴音は一気に寂しく、肩身が狭くなった。麻理恵と仲直りすることは可能なんだろうか。一生嫌われたままでいるしかないのだろうか。

 そうだとしても、何も文句は言えないだろう。

 翌朝、ホテルの朝食を食べに行こうというとき、琴音は駄々をこねた。

「私は食欲がないから、部屋で待ってるよ」

「はあ?」

 母は顔を歪めた。

「まだそんなふざけたこと言うの?」

「だって食べたくないんだもん」

「いい加減にしないと怒るよ」

「待たないか」

 父が母を止めた。

「こんなときに喧嘩しなくてもいいだろう」 

 と母をなだめてから、琴音の方を向いた。

「琴音もわがまま言ったらいけないよ。楽しい旅行なんだから、朝食もおいしく食べようよ」

 父は穏やかに言い聞かせた。

 琴音は俯いた。これ以上食べるわけにはいかないのに。 

「麻理恵もきっと琴音が来るのを待っているぞ。部屋にこもっていたら、あの子も心配すると思うよ」

 そうだ、麻理恵には会って謝らなければ。

 琴音の心に麻理恵の泣き顔が浮かんだ。

「食べに行こう、琴音」

 母の口調も励ますようなものに変わった。

 琴音は黙って両親と一緒に部屋を出て、朝食会場へ向かった。バイキング形式だから、ほとんど何も食べないままに、ごまかせるかもしれないと琴音は考えた。

 朝食会場は人で溢れていた。中へ入ると、伯父夫婦が隣の席をどうにか確保してくれていたので、一緒に食べられた。

「琴音、おはよう」

 麻理恵が普通に挨拶してきたので、琴音は驚いた。

「おはよう麻理恵」

「ねえ、一緒に取ってこようよ」

 と麻理恵が言うので琴音は麻理恵と一緒に席を立った。

「私食べたくないんだ」

「嫌いなものあるの?」

「食欲がない」

「昨日いっぱい食べちゃったもんね。まだお腹に残ってるのかもね」

 と麻理恵は笑った。

 しかし全く何も取らずに席へ戻るわけにもいかず、琴音は少量、野菜やフルーツを中心に取った。

「そんなんじゃ元取れないよ」

 と麻理恵が言ったが、琴音は言い訳した。

「昨日の焼き肉があくどかったから」

 琴音は麻理恵と並んでテーブルに就いた。両親と伯父夫婦の目を気にして、琴音は取ってきた食べ物を全て食べないわけにはいかなかった。

「あら、あなたそれだけでいいの?」

 と伯母に言われた。母が横目で琴音を睨みつけていた。

「昨日お腹いっぱい食べたから」

「意外と代謝悪いのね、若いのに」

「我々はあれだけ食べても元取ってやろうと頑張ってるのにな」

 と伯父が笑った。大人たちは再び彼らの世間話に戻った。麻理恵は琴音に平常時と変わらず接してきた。怒った様子もなく、和やかに会話した。琴音は動揺した。問題なく話せるなら、あの心配は何だったのだろう。

 午前中は海の周りで観光をした。午後はショッピングの時間だった。この土地でしか買えない食料品やお土産を買うために二家族は付かず離れずの距離で店を回った。

 琴音があまりにも無気力で何も楽しそうにしないので、母は怒っているようだった。

 あるとき、母は琴音の横に来て、凄んだ。

「何が気に入らないのよ」

 母は琴音の腕を掴んだ。

「何がそんなに気に入らないのか、言ってみなさいよ!」

「やめなよ」 

 父が二人の間に割って入った。そして母に言った。

「琴音だって好きで元気がないわけじゃないんだろうからさ」

「好きで機嫌悪くしてんのよ。何もかもみんな気に入らないって、態度で示してんのよ。せっかく旅行につれてきてもこの調子で、おかしいじゃない」

「難しい年頃なんだから仕方ないだろう? そう、楽しい場所に来たから、はい楽しいですとはいかないのかもしれない」 

「でもこんなときくらいむすっとしないこともできないのよ? できないんだか、しないんだか分からないけど」

「まあそうカッカするなよ。ママこそいちいち怒らないで旅行を楽しめばいいじゃないか。せっかくママ自身が企画したんだから」

 母は仕方なく怒るのをやめた。それでも琴音の様子を見ては、ときどき口の中で文句を言っていた。

 伯父夫婦とは帰路の途中で一緒に夕飯を取ってから別れた。琴音は夕食も仕方なく少量口にした。帰宅して、琴音と両親は草臥れた身体をどうにか動かして車から荷物を家まで運んだ。

「これだけ疲れても、何にもいいことないんじゃ、旅行なんて当分行きたくないね」

 母が苦笑いして言うと、父は同意も反論もせず、

「さっさと片付けて、風呂入ろう。俺は早く寝たい」

 と言っておもむろにテレビをつけた。

 琴音は自分のスーツケースだけ片付けてから、自分の部屋へ逃げ込むように入った。

 その夜、琴音はどうにか自力で吐き戻すことに成功した。嘔吐の苦しみと体力が奪われた身体に満足した。

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