第十一話「顧問を激怒させたこと(中学校の思い出)」長編小説「15th-逆さまの悪魔-」
琴音は中学時代、吹奏楽部に入っていた。担当楽器はトランペットだった。同じパートで同学年の生徒はただ一人、豊子という女子だった。豊子は部活顧問の一番のお気に入りで、いつも特別扱いされていた。部活の顧問以外にも、あらゆる先生や先輩に常に可愛がられてお気に入りにされる、そんな生徒だった。琴音は顧問からも先輩からも豊子との扱いに当たり前のように差をつけられていた。後輩たちも全面的に豊子の味方で、琴音のことを馬鹿にしており、彼らには嫌がらせを繰り返された。豊子本人からは苛烈ないじめを受けていた。
三年生になったばかりのときである。ある日いつものように豊子に散々暴言を吐かれた後、突然他の同学年の部員たちが話しかけてきた。
「大丈夫? またやられてたね」
「いっつもひどすぎるよねあの子」
「私、前から豊子ちゃん、植田さんに対して鬼だなと思ってた」
琴音はそうだといい、もしかしたら彼らが味方になってくれるのではないかと期待した。パート内には自分の味方は一人もいないから、他のパートでも分かってくれる人ができたのは心強かった。誰かが顧問に告発しようと言い出した。集まっていた部員たちは、みんなそれがよいと口々に同意した。
ある日、琴音は部長のクラスへ行って、豊子にされてきたことを話した。それを部長はルーズリーフにメモしてくれた。それはよかったが、周りにいる他の部員も豊子の悪い噂を次々に述べ始めた。その中には、琴音が決して言わない「気に入られてるからっていい気になっててムカつく」などの事実ではないただの悪口も含まれていた。それらが全て「琴音の証言」として書かれてしまって、琴音が言ったような形になっていた。
琴音は嫌だし不安だったが、周りが勝手に次々と口に出していってそのまま部長にメモに書かれてしまうので拒否する暇がなく、また、自分のためにやってくれているのだと思うと何も言えなかった。
他の部員たちは確かに琴音に同情しているのもあるが、それ以上に、自分たちがいくら努力しても媚びても得られない顧問の一番のお気に入りという特権を何の努力もせず最初から手にしている豊子を引き摺り下ろしたいという気持ちが強いことに、琴音は気づいていた。彼らが自分を利用していること、そのずるい邪な魂胆をはっきり感じた。
証言を書いた紙を部長が顧問に提出した。この部活顧問は琴音の母と同じくらいの歳の女性だが、歳の割に堪え性がなく、幼児のようにエゴイスティックな人間だと琴音は以前から肌で感じていた。琴音は顧問に呼び出された。てっきり事実確認だと思った。そのときに自分の発言と他の部員の勝手な感想を分けて説明できるだろうと期待した。
ところが顧問は予想外にも激怒していた。そして琴音に、早く本当のことを白状するよう鬼の形相で求めてきた。琴音は訳がわからなかった。自分は何も嘘をついていない。顧問に何の話か尋ねたが、顧問は答えず、自分でよく分かっているでしょうと言うだけで話にならなかった。
琴音は戸惑ったが最初、顧問は感情を抑えられない人だから、誰かに怒っているときにその怒りをぶつける相手を選べないのかなと考えた。激怒しているのは豊子に対してだが、感情のコントロールができなくて琴音にも怒りをぶつけずにはいられないのではないかと。
しかしそうではないことがだんだん分かってきた。顧問は他でもない琴音に激怒しているらしかった。
怒鳴り続ける顧問の話をよく聞いてみると、どうやら、琴音よりも技術的にもモチベーション的にも優れているから豊子はよい位置を与えてもらえているはずなのに、琴音は勝手に逆恨みして、彼女を陥れるために丸っきり嘘の悪い噂を部中に言いふらした、と考えているらしい。琴音は驚いた。そして、告発の内容は本当で、自分は豊子にいじめられているのだと言ったが、顧問はその訴えを豊子ちゃんがそんなことするわけないの一言で片付けた。
そして嘘の噂を流布して豊子の評判を下げようとしたことについての自白を琴音に迫った。琴音は必死に自分の言うことが嘘ではないことを主張したが、顧問は、琴音が顧問のことを舐めて嘘をついていることくらい分かる、とずれたことを言って頑なに信じない。
顧問との話はつるつるの壁を登らされるように困難で、全然上へ行けないし、すぐ落っこちてしまう。顧問は最初から思い込みで決めつけていて、琴音の話を聞く気を全くもっていないし琴音を嘘をつく悪人としてしか扱わない。話し合いが全く成立しなかった。
顧問は思っていた以上に自分の見たい世界しか見ない人だった。また、顧問の中での依怙贔屓の度合いも想定外だった。顧問にとって、豊子は何があっても守りたい大切なお気に入りであり、対して琴音は、地面を這う虫ケラ同然としか思われていないのだ。顧問の中での自分と豊子に対する思い入れの違いがそこまでだとは知らなかった。
琴音はありもしないひどいことを認めるのを嫌がった。だが顧問はもはや涙を流しながら感情的にわめいて部屋の外まで響く大声で怒鳴り続け、認めるまで明日まででも朝まででもここから出さないと脅してくる。
顧問のあまりの剣幕に負け、琴音はとうとう顧問の作話を事実だと認めてしまった。途端に顧問は燃え上がるかのように琴音を厳しく強烈に責め、
「こんなことをしておいてもう挽回のチャンスがあるとは思わないことね!」
と言い渡した。
無理矢理自白を取られ、ようやく解放された琴音は泣きながら部屋を後にした。もうほとんど活動時間は終わりだった。トランペットパートのメンバーは琴音に冷たい視線をぶつけた。豊子には
「ふざけんなよ!」
と言われて頭を拳で殴られた。後を引く痛みとともに琴音は絶望した。豊子にどんなひどいことをされても顧問は助けてくれないのだと分かったからだ。
顧問の対応は瞬く間に部中に知られた。彼らにとっては、顧問が琴音が悪いと言ったら、それはすなわち琴音が悪いのだ。顧問は部員たちの間で神格化されていて、顧問の言うことは絶対であった。
顧問は部活において目立った功績があるわけではない。T中学校はコンクールに出場しても、全国大会進出など夢のまた夢で、金賞を取れないどころかほとんどの学校がもらえる銀賞さえも与えられず、毎年銅賞だった。生徒は毎年変わるから、成績が振るわないのは生徒ではなく顧問の腕のせいだと琴音には思えたが、生徒たちも顧問自身も銅賞しか取れないことを生徒の問題だと言うのだった。どうしてそんな顧問がそこまで崇められるのか、琴音にはわからなかったが、顧問が右と言ったら右、左と言ったら左であった。その神格化は先輩から代々受け継がれるものだった。
一年生の新入部員は入部した直後は顧問の横柄な態度や、機嫌の悪さによって部員を振り回すわがまま具合、あまりに露骨なえこひいきに呆れ、陰口を言うものだが、やがて先輩たちに「教育」されて顧問を盲信するようになる。この部では、顧問に心酔するのが義務だった。
部員たちはそれぞれに監視し合い、顧問に従わない者、盲従しない者を許さなかった。凄まじい同調圧力が部を支配していた。
だから今回も、誰も顧問の言うことがおかしいとは言わなかった。
部員たちは告発を言い出したのは自分たちだということを棚に上げた。琴音が余程差し出がましいことをして顧問の逆鱗に触れ、怒られたのだというような空気を作った。
このことが原因で、琴音が他の部員からいじめられることは一応なかった。だが彼らが悪口を言うときに使われる「嫌われ者」という呼称が誰のことを指すのか琴音は知っていた。
琴音はそれ以後スケープゴート状態で、顧問に一番嫌われて悪い扱いを受け続けた。本番には一度も出してもらえず、常に一人だけ締め出され、顧問にはつらく冷たく当たられた。
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