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第三十三話「高熱にうかされて」長編小説「15th-逆さまの悪魔-」

――なんで麻理恵にあんなこと言ったんだろう。私のせいで麻理恵は傷ついた。麻理恵のお腹の子じゃなくて私が死ぬべきだったんだ。何で私なんかがまだ生きているんだ――

――私は豊子ちゃんのように愛される人間じゃない。豊子ちゃんは何をしても先生や先輩から全肯定される。偉い人はみんな豊子ちゃんの味方だ。私はどれほど努力してもあんな風にはなれない。羨ましい、妬ましい――

――私は遠田先生には嫌われて、最後まで部活の一員として認められなかった。たとえ内申に傷がついて、進学ができなくなって、未来が閉ざされるのだとしても、私は部活をやめるべきだった。それが先生のためだった。先生の気分は私の一生よりよほど大事なんだから。部員全員がそう言ったに違いないんだから――

 琴音は突然我に返って目を開けた。眠っていたのか、目を閉じて考え事をしていただけなのか、判然としない。意識が遠のくと頭の中で思考だけが展開して、普段意識の下で絶え間なく動いている自分の考えが浮き彫りになる。

 琴音は一瞬後、また発作的に咳き込んだ。激しく咳をすると胸がすりむけるように痛む。体力も削られ、収まると同時に身体がぐったりとベッドに沈み込んだ。

 呼吸は十分にできない。肺の中に綿埃でも詰まっているような感覚で、吸うのも吐くのも足りなくて非常に苦しい。ずっと横になっているおかげで最低限の呼吸だけで足りるが、それだけでもつらい。

 インフルエンザがここまで悪化したのは、やはり普段食べないせいであろう。今は具合が悪いから、母は優しく接してくるが、治癒したら怒られるかもしれない。入院によって費用もかさんでいるだろう。両親には負担ばかり掛けている。こんなことをしでかしてしまったので、母との仲はますます悪化してしまうかもしれない。

 思えば長い間、両親とは摂食障害のことがなくても分かり合えなくなっていた。琴音は、父と母には、申し訳なさを感じると同時に不信感も覚えるのであった。たくさんの迷惑を掛けてしまい、胸が苦しくなる。きちんと謝りたい。しかし打ち解ける気になれないのも事実だ。琴音自身も、両親も、両方が相手との間に壁を築いてしまっている。琴音はその隔たりを常に感じているのだ。

 両親に対して不義理を働いている私だが、私自身に対してはどうなのだろう、と琴音は考えのスポットライトをずらして自分自身に当てた。自分が食事を拒むことで、自分の身体をいじめている。様々な不調を通して身体は必死に窮状を訴えているのに、自分はそれらを全部無視して栄養を絶っている。私の身体はなんと可哀想なのだろう。

 身体と呼んでいるが、可哀想なのは私自身だ、私は私を追い詰めて虐待しているのだ、と琴音は頭の中で言葉にして、改めて気づいた。

 もしかしたらこの肺炎で私は死んでしまうかもしれない。何ヶ月も、必要な栄養をほとんど摂っていないので、体力が全然ない。この身体では病気に勝てないのではないか。死の恐怖は全身を戦慄させた。

 死ぬのはあまりにも怖い。自分をいじめたいのだとしても、本音を言えば、命を落とすことまでは望んでいない。でも死んでしまっても自業自得だ。どうしよう。

 琴音は恐怖のあまり、更に呼吸を荒くした。病気の身体には、心理的ストレスはそのまま身体的苦痛となって現れた。呼吸が乱れるとともに身体が苦しくなり、吐き気がした。胃はすっかり弱っているらしく、激しく痛んで収縮する。気持ち悪くなって、琴音はなんとかかろうじて枕元に置いてあった洗面器を顔の前にもってくることができた。そしてそのまま嘔吐した。ナースコールのボタンを押す。嘔吐はまだ続いて、看護師がやってきたときにも琴音は非常に苦しみながら発作的に吐いていた。

 体調が悪化したとき、看護師が何もかも世話してくれるのを、琴音は心強く感じた。

 落ち着いてから横になっていると、また熱によって意識が朦朧としだした。

 私は死にたくない。でも死ぬべきだったのかもしれない。私が嫌でも、周りが強要してくるためにやらなければならなかったことはたくさんあった。

 部活で、顧問にも部員たちにもいじめられていた自分は遠回しに死ねと言われていたのではないか。

 二つしか選択肢がない状況で、どちらを選んでも責められることは数えきれないほどあった。それはつまり、私が存在すること自体が許されなかったのではないか。存在してはいけないということは死ねと言われているのと同じではないか。そして、あの人たちが死ねと命じるなら、私は否応なく死ななければならなかったのではないだろうか。

 私の意思なんて、遠田先生や豊子ちゃんの意思に比べたら、一顧だにされないくらい軽んじられていたのだから。向こうが死ねと言うなら、私は死ぬしかない。どんなに嫌でも、従うしかない。

 高熱によって熱せられた熱い涙が頬を伝った。

 私はなんて弱い立場だったんだろう。学校では、スクールカーストが下位の者には、人権なんて存在しないのは分かりきっているけれど、そんな果てしない理不尽によって、命まで奪われなければならないのだろうか。私の命は間違いなく豊子ちゃんの命よりよほど軽かったけれど、スクールカースト、つまり周りからの値踏みというただそれだけのルールによって、そこまで差がついてしまうのは、あまりにも悲しい。

 どうして私は豊子ちゃんのように大切にされなかったのだろう。当たり前すぎて考えたことがなかったけれど、疑問をもつことさえ許されないくらい自明なことだったけれど、理由は、根拠は、どこにあるのだろう。

 豊子ちゃんのあの絶大なる人気と権力に、正当な理由も根拠も存在しなかったのではないか? その実情は空虚なものだったのではないか? しかし中身が存在しなくても、先生や先輩といった学校の権力者たちは豊子ちゃんを強く愛し、無条件に全肯定していた。常に揺るぎない依怙贔屓だった。そしてそれは学校では当たり前のこととされていた。

 特定の生徒だけ力をもつことを許され、そこにはなんの正当な理由もないのにもかかわらず当然のこととされて、疑問を差し挟むことさえ認められない。そんな構造が全校を支配していた。正しさとはほど遠い気がする。

 あの学校って、何だったんだろう。

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