(再考)ライ麦畑でつかまえて
2018年の夏に、ユーチューブやツイートキャスティングなどで活動されている信州読書会さんのツイキャス読書会にて、読書感想文を書かせていただいた。(画像参照)
季節の移ろいとともに、思うことがいくつか出てきたのでここに書く。
物語終盤、主人公のホールデン・コールフィールドが、妹のフィービーに語るライ麦畑の話。
「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいないー誰もって大人はだよー僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。(中略)僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだーそんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」[ライ麦畑でつかまえて/野崎孝 訳 白水uブックス 269p]
崖の下とはなにを意味しているのだろうか。
後のアントリーニ先生の助言から察するに、それは社会(アメリカ社会と言うべきか)からの脱落、成熟の放棄、社会と折り合わず個を捨て去ることのできない(理想のために高貴な死を選ぶ)傲慢さ(愚かさ)であると考えるのが自然であろう。
だけれど僕は、どちらかといえばこれは内面的な意味合いであると感じる。
人は生きていく中で多くの罪を重ね、人を傷つけ、嘘を吐き、汚れていく。そして大人になっていく。
学校生活ではカーストを維持しようと、より弱者を位置づけ、強者を超えないよう自分の価値を自己調整するし、会社勤めでもしようものなら、ロクでもないことに加担せざるを得ないということもある。拒めば「社会」から追放されてしまう。
その多くは極めて自己中心的なものだし、厄介なことに無自覚である場合も往々にしてあると思う。
自分自身、思い返してみるとそういった体験をしてきた。
それは例えば、親や女性に対してであったりする。
もしくは自分よりも弱い者に対して。
つまり無条件に自分を愛してくれる人、頼らざるを得ない人に対してである。
そういう人たちに対して犯してきた罪は、時々僕の胸をチクリと刺す。
あるいはそういった胸をチクリと刺す罪の苦味に酔いしれるという、新たな汚れが染み付いていく。
ライ麦畑には、大人は立つことはできない。
崖の底まで落ちていくか、途中でなんとか踏みとどまるかだ。
人は誰でも人知れず誰かを傷つけてしまうものだ。
皮肉なことに、人生がうまくいっている時にはそんなことは頭をかすめもしない。
私は正しく・私には汚れなどなく・欺瞞などない善良な人間である、と。
しかし、そううまくはいかない。
人生がうまくいかなくなった時、人生の1日の中でふと立ち止まった時に、それまでの罪の重さ、致命的に染み込んだ汚れ、欺瞞がずっしりとのしかかり、潰されそうになる。
つまり、読者が自分の人生の中で、自分自身に染み付いた汚れに嫌悪を感じ、犯してきた罪に耐え切れなくなり、あるいは鈍感になり、さらに罪を重ね欺瞞の崖の底に落ちていきそうな時に本書を開くと、ホールデン・コールフィールドが、底まで転がり落ちていかないように捕まえてくれるのだ。
「やあ、おたがいろくでもない目にあったもんさね。でもあんたは大丈夫だよ。僕が捕まえたんだから。絶対に手を離しちゃダメだぜ」と。
個人的にこの作品の登場人物で好きなのが、ホールデンの兄のD.Bである。
若い時分にはまともな作家だったが、今はハリウッドに身売りをしたと弟に揶揄されている人物だ。
作中には描かれていないが、おそらくこのD.Bも、過去に弟のホールデンと同じような体験をしたのではないだろうか。同じ環境で成長したこと、そしてアリーの喪失を体験したことからもうかがえる。
それでも兄は大人になることを引き受けた。
前述のアントリーニ先生の言葉を引用すれば、『秘密の金魚』のような高貴な死ではなく、ハリウッドに身売りをするという卑小な生を選んだ。
それが自らの汚れを認め、罪を受け入れる=大人になるということなのだと思う。
余談
タイトルの『ライ麦畑でつかまえて』原題はThe Catcher in the Rye 邦題を訳し直すとcatch me in the ryeといったところだろうか。なぜ『つかまえて』と訳したのか。正確なところは知らないし、おそらく語感が良いから程度の理由だと思うが(実際、素敵なタイトルだ)、もしも前述のような意味合いであるのならば、それはそれであたたかい気持ちになれる。
そう考えるとマーク・チャップマンの件は皮肉としか言えないが…。
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