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読書感想文

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読んだ本の読書感想文を中心に公開しています。 あくまでも主観・雑感で、作者様の意図するところとかけ離れている場合もありますのでご了承ください。
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2020年9月の記事一覧

奥野紗世子『逃げ水は街の血潮』 感想文

 クドゥ・モニは周囲に毒吐いていないと自分の自尊心を保てない人物のように感じた。  始終自分だけは顔がいいことにこだわっているけど、(一人称文体なので作中には書かれていないが)おそらく事実は自分が周りの誰よりもブス(イケてないという意味ね)であり、それを理解しているが故の解毒行為なのではないだろうか。  そしてそれは美と醜≒年齢やファッションセンスで日替わりにランク付けされる世界に自分が存在している事実と裏表でもある。  これをSNS時代の話、地下アイドルをモチーフにした令

小川糸『ツバキ文具店』 感想文

 人に想いを伝えるという行為の中で、手紙ほどその工程が多く、人となりを表すものはないと思う。  それはー①道具を用意し、に始まり⑧投函する、に終わる。そして「想い」は認めた瞬間のまま時間が停止し、何年もそこに存在するのだ。 差出人の存在が消えた後もー。  先代である祖母の跡を継ぎ、鎌倉で「ツバキ文具店」を営むポッポ(雨宮鳩子)は文具店の店主をする傍、本来の仕事である代書屋をおこなっている。代書屋はその名の通り、代筆を生業とする職業である。代書屋の元にはなんらかの事情で自ら

三田誠広『いちご同盟』 感想文

 いい加減大人になりなさいと言われるかもしれないが、僕は小説にしろ映画にしろ結末で人が死ぬ物語が大嫌いだ。(ホラーやミステリーは除く)  特に病気や事故で死ぬことでストーリーが完成する話は、鳥肌が立つくらい嫌いである。憎み蔑んでいると言ってもいい。これは死に対する忌避の意識もあるのだろうけど、何よりも嫌なのは、死というものは人の心を動かすことを必然的に約束されたパイだからだ。可愛らしい動物をSNSで披露するようなものだ。そんなものを利用する作家は、とんでもなくあさましく想像力

ジャック・ケッチャム『隣の家の少女-THE GIRL NEXT DOOR-』 感想文

小説とノンフィクション・ドキュメンタリーの違いは、なんといっても主人公≒語り手への感情移入の有無にあると思う。どれほど陰惨なノンフィクションを扱った書物であろうと、ドキュメンタリータッチであれば読者は語り手の記述に対し「極めて俯瞰的に」受け止めることができる。 それに対し小説は、今まさに目の前にある体験を主人公である本人が語ることによって、視点は目の前の一点のみに限定されてしまうのだ。 1958年 夏-アメリカ 主人公である12歳のデイヴィッドは、近所の悪友とともに隣家のチ

谷崎潤一郎『春琴抄』 感想文

 「自分は、人生の中で子供を設けることはおそらくあるまい-」  十代の頃、漠然とした決定を下した。女性と付き合う時には早めに伝えていたし、それで相手を傷つけたこともあっただろう。それでもその決定は確信に近いものがあった。  年を経るごとに「子供」という明確な存在のみならず、そもそも結婚という生活様式に対しても思うところが出てきた。  村上春樹氏の著作『ねじまき鳥クロニクル』を読了した頃、その漠然とした思いが恐怖心に近いものであったことに思い至る。人を愛し共に生活をすると

『未完成の修士論文とロシアンマダム・アンナ・カレーニナの栄枯盛衰』

 先ごろ、修士論文作成中の知人と会話をした時のこと。  信仰心にも関連した福祉的支援についての話になり、話中のエピソードの中に一点、小さな疑問を持つ箇所があった。  それは「(主として)後期高齢者においては、支援者に対する感謝の意思とその表し方に特徴がある」ということだった。統計と呼ぶには母数が少ないため明確な根拠にはなりえなく、彼女の主観の一言で片付けられることも事実であるとは思うが、特定の世代以前と以降でその表現方法に違いがあることは自分自身のこれまでの経験においても思い

湊かなえ『白ゆき姫殺人事件』 感想文

 殺人事件という悲劇によって始まる物語ですが、悲劇に対峙した人々がそこにドラマ性を持たせようとすると、それは途端に喜劇に変化していきます。  本作は、それがSNSという現代的なツールを軸に進んでいきますが、それはいつの時代も、他者との関係性に関わらず存在しうるもので、本作でもSNSの炎上のみならず、職場の噂、女友達(自称親友)の自己本位な擁護、果ては両親に至るまで、主人公を取り巻く軽薄な人々が勝手に存在しない物語を進めてくれます。  おそらく作者はこの辺りの軽薄さを意図的に書

ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った-Johnny Got His Gun-』 感想文

以前、障害者施設で6年ほど生活支援の仕事をしていた。 医療(専属看護師、協力医療機関)とも連携しており、彼らは徹底的に健康管理されていた。 最低限のバイタルチェック(検温、血圧、食欲、便の状態etc.)で「健康である」と判断されれば通常の日中活動を行う。 障害の軽度な人、あるいは発語可能な人は口頭で体調について意思疎通を図ることができるが、重度の人はなかなかそうもいかない場合がある。だから先述のデジタルであったり表情、顔色などの日々の傾向から推測をするしかない。 『ジョニー

ヘミングウェイ『老人と海』 感想文

 人と読書の間には通常の欲求とは異なるワンクッションがあるように感じる。美味しそうな食べ物を見たら「食べたい」と思うだろうし、いい女(男)を見たら「繋がりたい」と思うだろう。これは対象と欲求が直結しているが、読書に関しては対象と欲求の間に「何か」がある。  年に365冊を目指すタイプの食いしん坊はそんなことはないのだろうけど、私のような少食は「選りすぐられていて人生に影響を与えるような、かつ時の洗礼を受けた名作だけど話としても面白いものを出来るだけ効率的に読みたい」という偏

(再考)ライ麦畑でつかまえて

2018年の夏に、ユーチューブやツイートキャスティングなどで活動されている信州読書会さんのツイキャス読書会にて、読書感想文を書かせていただいた。(画像参照) 季節の移ろいとともに、思うことがいくつか出てきたのでここに書く。 物語終盤、主人公のホールデン・コールフィールドが、妹のフィービーに語るライ麦畑の話。 「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そして

崔実(チェ・シル)『ジニのパズル』 感想文

 イメージというものは思い込みに直結するもので、私はなぜかこの作品を「発達障害をテーマにした小説」と思い込み、タイトルは知っていたものの長らく食指が動かなかった。  思い込みというものは得てして主観的な願望によるものだと思うし、その思い込みが強化される事で脳は偏見を生み、偏見は差別というモンスターに変身する。モンスターが誕生してしまうと、いかに元のイメージを払拭しようとも、その具現化した残酷を打倒することは容易ではない。  人は人生のある段階で「どうしても勝てないもの」の

志賀直哉『流行感冒』 感想文

 神経症とは主観的事実の病である、という文章を目にしたことがある。  例を挙げると、心臓の病で急死した知人の死に慄き、自分も同様の病に見舞われ死ぬのではないかという恐怖から生じる自らの感覚のみを唯一の事実として認識してしまい、主観に囚われることである。  すると普段気にも留めない心臓のちょっとした違和感や、日常生活動作で起こりうる多少の動悸でさえも件の病と結びつけ、死と結びつけてしまう。まるで風に揺れる柳の葉を幽霊と信じて疑わないようなものだ。  これに対し客観的事実は、概ね

志賀直哉『小僧の神様』 感想文 〜小僧のロックスター〜

      『小僧の神様 感想文 〜小僧のロックスター〜』 「若者にとって最大の暴力は崇拝するロックバンドの解散であり、ロックスターの死である」  大昔に読んだあるロックミュージシャンの伝記の一説を思い出した。  社会の中の自分が確立していない年頃とは、あらゆる感動に対し極めてセンシティヴなものである。それは例えば音楽であったり漫画であったり、はたまた文学作品に感銘を受けるとか、職場の先輩に連れられ暖簾をくぐった居酒屋のお通しがこの上なく美味かったといった体験だったりする