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奥野紗世子『逃げ水は街の血潮』 感想文

 クドゥ・モニは周囲に毒吐いていないと自分の自尊心を保てない人物のように感じた。
 始終自分だけは顔がいいことにこだわっているけど、(一人称文体なので作中には書かれていないが)おそらく事実は自分が周りの誰よりもブス(イケてないという意味ね)であり、それを理解しているが故の解毒行為なのではないだろうか。
 そしてそれは美と醜≒年齢やファッションセンスで日替わりにランク付けされる世界に自分が存在している事実と裏表でもある。

 これをSNS時代の話、地下アイドルをモチーフにした令和の新しい小説として照準を絞ってしまうと理解困難だろうし、それではもったいない。

 けれど、テーマはもっとどの時代にもある普遍的な、若い女性特有の自尊心の保ちにくさにあるのだと思う。公正に言えばなんとかして保とうとかき集めた自尊心がその矢先に、最も嫌いなタイプの人たちのシステムの中で機能し消費され消えていってしまう、そんな自分の価値に対する焼け石に水感といったところ。露出が多ければセックスオーケー理論なら尻ポケットから覗く薄汚い長財布をくすねてもオーケー、すなわち自己実現のために人を消費していいのなら、私が自尊心を保つためならシステムを焼き尽くしてもオーケーなのだ。

 ことにアイドルという消費されることを目的とされた生き物である自分自身の行く末、つまり死にたいけどまだ死にたくないという強烈な生の終着点には妊娠線や曲がった腰が待ち受けているのだ、ということをあの時理解してしまったのだろう。それが諦念なのか受容なのかはわからない。少なくとも消費期限が間近に迫った今、木村や取り巻きのオタク連中という俗物が妊娠線も曲がった腰も工藤朝子も愛してはくれないということは確定した事実だ。
(おしまい)

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