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ヘミングウェイ『老人と海』 感想文

 人と読書の間には通常の欲求とは異なるワンクッションがあるように感じる。美味しそうな食べ物を見たら「食べたい」と思うだろうし、いい女(男)を見たら「繋がりたい」と思うだろう。これは対象と欲求が直結しているが、読書に関しては対象と欲求の間に「何か」がある。

 年に365冊を目指すタイプの食いしん坊はそんなことはないのだろうけど、私のような少食は「選りすぐられていて人生に影響を与えるような、かつ時の洗礼を受けた名作だけど話としても面白いものを出来るだけ効率的に読みたい」という偏食ぶりである。

 しかし「何を読もう?」という段になるとこれがなかなか難しく、あらすじだけでは世界観が見えないものがほとんどだし、手を出してはみたものの、一章でつまらなく感じてしまい放棄(世に言う挫折)してしまうものもこれまで多数あった。そして積ん読が増えていく。(タチの悪いことにこの「積ん読」というものがなかなかに中毒性の高い蜜であることは言うまでもない)

 そんな折、ある女性から「あなたは釣りをやるんだから『老人と海』を読みなさい」と勧められた。
『老人と海』という作品名を知らなくてもヘミングウェイという名前くらいは知っていると思うし、ヘミングウェイという作家を知らなくても『老人と海』という作品名くらいは誰でも聞いたことがある、というくらい有名な作品である。


 さて、中学や高校の読書感想文に用いられがちな当作品。文部科学省がなにを狙いとして用いているのかは僕の知るところではないが、ネット上に転がる、人の感想を読んでみると「自然の厳しさと対峙する老人の力強さ」「自然の厳しさと美しさ、人生の美しさと厳しさ」などの感想が多くを占める。

 なるほど。いや、それ以外に何かあるのかと初めは思った。
 が、何か釈然としない。というか漠然としている。美しすぎる。
 海を人生、漁を仕事、そして老年(老い)を人生の総括として見た場合、人の人生ってそんなに物語的で美しいものだろうか。そんな疑念とともに、一つの疑問が持ち上がった。

[なぜサンチャゴはカジキを持ち帰れなかったのか]

 主人公はサンチャゴという老人。八十四日も魚を獲れずにいる。物語は漁に出る前日から始まり、サンチャゴのそれまでの人生(生活)は、主観による語りのみに終始している。(これはフランツカフカの『変身』も同様である)
 彼の周囲には、誰もいない。信じ、慕ってくれる少年が一人いるが、彼も親の言いつけにより半ば去りつつある状態である。
 一見、それなりに栄光ある過去を持つ名うての漁師が老いさらばえた姿という物語設定に見えなくもないが、それが客観的事実として明確に描かれているわけではない。

 個人的に、仕事(こと計算外の動きを見せる自然を相手にするような仕事)において最も必要な要素は「経験」であるというのが持論だ。別の言葉を使えば、職業的勘とでも言おうか。漁師として生まれ、生きてきた彼には多くの成功と挫折という貴重な経験があったはずである。その何物にも変えがたい貴重な経験を持つ漁師が、老いたとはいえ大物を仕留めたものの帰路で鮫に食い荒らされるというヘマをやらかすものだろうか?

 18ftもある大物は確かに想定外だったのかも知れない。
 とはいえ、それを仕留めるのにどれくらいの時間がかかるのか、沖に出てからどこまで引きずられるのか、この海域の鮫はどこをどう回遊しているのか、仕留めた獲物を携え帰路に着くまでにもし襲われた場合にどう応戦するのか、そもそも1人で沖まで出ることが正しい判断なのか、それらの困難と仕留めた獲物を天秤にかけた時、なにを選ぶのか。これは長年の(この作品でいえばおそらく半世紀以上は漁師をしているものと思われる)経験でしか判断することができないし、嫌でも感覚として染みついているものだと思う。

 もしかするとサンチャゴは漁師としては元からそれほど腕の立つ男ではなく、大きな成功も百戦錬磨のような経験も経てこなかったのではないか。そしてそれを補うような仲間を持つという選択を人生の中でしてこなかったのではないだろうか。

 作中で繰り返しサンチャゴの口から漏れる独り言、そして「あの子がいてくれればなぁ」という言葉。「あの子」は例の少年自身かもしれないし、若さや経験、仲間との繋がりの比喩かもしれない。

 そう考えると、骨だけになった大物の姿はとても悲しく見える。
 命をかけてでも守りたかった孤独な男の矜持は儚く、人生の終わりは惨めなものだった。
 それでもサンチャゴの選択の末路が哀れだとは思わないし、多くの人の人生ってそんなものなのだと思う。


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