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志賀直哉『流行感冒』 感想文

 神経症とは主観的事実の病である、という文章を目にしたことがある。
 例を挙げると、心臓の病で急死した知人の死に慄き、自分も同様の病に見舞われ死ぬのではないかという恐怖から生じる自らの感覚のみを唯一の事実として認識してしまい、主観に囚われることである。
 すると普段気にも留めない心臓のちょっとした違和感や、日常生活動作で起こりうる多少の動悸でさえも件の病と結びつけ、死と結びつけてしまう。まるで風に揺れる柳の葉を幽霊と信じて疑わないようなものだ。
 これに対し客観的事実は、概ね医師の診断である。心電図異常ナシ、血圧・脈拍・血液の値に所見認められず、という事だ。

 これは誰しも体験したことのあろう、とりとめのない不安であるが、こうした観念が強化されると次第に強迫観念に囚われることになり、柳の葉が幽霊でないことの証明や、幽霊でなくてはならない根拠探しに奔走することになる。外向性という本流から逸れ、内向性の淀みに没入してしまうと、社会生活や人間関係に大きな支障を来してしまうことにもなり得る。

『流行感冒』の主人公が上記の病に至っていると言いたいわけではない。私は医師でも心理士でもないし、そこが本作の主題ではないからだ。
 ポイントは、彼が事実を事実として、過去を過去として受容(区切りをつけるという意味)しきれていない点にあるのだと思う。
 彼の囚われは決して流行感冒そのものではない。それは第一子の死であり、また死の気配に気づくことができなかった自らに対する疑心であり後悔なのだろう。つまり彼もまたノルウェイの森のように、解決し得ない過去から逃れられずにいるのだ。

 次第に疑心は自らの内から漏出し、他者をも巻き込んでしまう。石に対する印象は時を遡り、あるいは起こってもいない未来を予期して「あれも嘘だったのではないか」「いずれとりかえしのつかない嘘をつくのではないか」と彼女自身があたかも嘘の権化であるという事実を作り出すことに囚われてしまう。今ここに在る事実としての石は、(可愛らしい嘘はついたにせよ)多少ズボラで働き者の女中でしかないにも関わらず。

 そして彼は自らが罹患する事で、自分が本流を逸れ淀みの中をぐるぐると回っていたことに思い至る。対して石は、あくまでも本流に身を委ね、目の前にいる主人の身辺の世話に従事するという女中としてやるべき役割をただ全うした。

✴︎

 コロナ禍では多くの人々が幽霊に怯えているように思う。それはウイルスという目に見えないものへの恐怖心から派生し、疑心という養分を吸って日々変幻増大しながら今なお社会を覆い尽くしている。ある時は差別や排他、恐怖心が足りないと見なした者への同調圧力、吊し上げという形をもって顕れ、ある時は命の選別(※医療現場におけるトリアージではなく、高齢者しか重症化しないから問題ないといった一部の風潮)という形をもって顕れる。

 何が事実で、何が自分の内に巣食う恐怖心が生み出した化け物であるのかを見極めなくては、そんな自戒を促す作品だった。

参考文献:
「神経質の本態と療法」森田正馬 著(白揚社)



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