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『未完成の修士論文とロシアンマダム・アンナ・カレーニナの栄枯盛衰』

 先ごろ、修士論文作成中の知人と会話をした時のこと。
 信仰心にも関連した福祉的支援についての話になり、話中のエピソードの中に一点、小さな疑問を持つ箇所があった。
 それは「(主として)後期高齢者においては、支援者に対する感謝の意思とその表し方に特徴がある」ということだった。統計と呼ぶには母数が少ないため明確な根拠にはなりえなく、彼女の主観の一言で片付けられることも事実であるとは思うが、特定の世代以前と以降でその表現方法に違いがあることは自分自身のこれまでの経験においても思い当たることが多々ある。

 端的に言えばその世代間のラインは「戦争を体験したか否か」にあるのだと思う。そしてそのラインの向こう側とこちら側にある違いについて考えを巡らせてみた結果、それはひとえに『天皇陛下の存在』が大きいのではないか、ということに思い至った。

 私は右翼でも左翼でもネトウヨでもパヨクでも保守でもリベラルでもない一介のブロークンウィングなので、神だとか象徴だとか天皇制がどうだとかについてはいっさい触れないが、有形無形にかかわらず特定の存在を信仰(信奉)することは人を強くし、揺るぎない自己を保つための芯のようなものを与えるのだろう。逆にいえば絶対的に信じるものなくして生きていけるほど人は強くはないのかもしれない。

『アンナ・カレーニナ』は愛を求め愛を喪失し生きる意味を見失ったアンナと、回り道をしながらも信仰を得、生きる意味を獲得することができたリョーヴィンの物語である。

 リョーヴィンという男は、その人生においてA→Cという道を辿る際に、間に(B)という自分が納得のいく理屈を落とし込まないとうまく生きていかれない男である。これは結婚や社会との折り合いの付け方に限らず、友人関係や農業との向き合い方についても同様だ。
 ポジティブに言えば<真面目で・誠実>であるが、ネガティブに言えば<理屈っぽく・世渡りが下手>ということになる。
 一方、アンナにはA→Cしか存在しない。<好きだから(A)>→<一緒に生きていきたい(C)>-そこにはいっさいの理屈を必要とせず、とても熱情的で感情的だ。
しかし結果的にアンナはその愛によって鉄道自殺を図ってしまう。

 アンナはおそらく無自覚に(B)に<愛>を当てはめようとしたのだろう。つまりリョーヴィンが信仰に見た道筋を、愛をもって辿ろうとしたのではないだろうか。
 しかし等価の愛を求め過剰供給されるアンナの愛(嫉妬)の重圧により、次第にヴロンスキーの心は変化していってしまう。あるいはアンナの目にはそのように映ってしまった。
 男女の愛は流動的かつ双方向によって成立するものであり、絶対的な信仰にはなり得なかったのだと思う。

(おしまい)


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