見出し画像

ジャック・ケッチャム『隣の家の少女-THE GIRL NEXT DOOR-』 感想文

小説とノンフィクション・ドキュメンタリーの違いは、なんといっても主人公≒語り手への感情移入の有無にあると思う。どれほど陰惨なノンフィクションを扱った書物であろうと、ドキュメンタリータッチであれば読者は語り手の記述に対し「極めて俯瞰的に」受け止めることができる。
それに対し小説は、今まさに目の前にある体験を主人公である本人が語ることによって、視点は目の前の一点のみに限定されてしまうのだ。


1958年 夏-アメリカ
主人公である12歳のデイヴィッドは、近所の悪友とともに隣家のチャンドラー家に入り浸る。
チャンドラー家の主人であり3人の友人の母親であるルースは、女手一つで息子3人を育てている。
そんな中、両親を失ったメグ、スーザンの姉妹がチャンドラー家にやってくる。ルースは姉妹に厳しい「しつけ」をはじめるー


あらすじとしては、これだけで十分だろう。
これはただのちっぽけな雪玉の一つで、それが斜面を下り大きくなりエスカレートし、スピードを上げて誰にも止められなくなる。それだけの物語だ。
終局はなんでもない。
膨れ上がった雪玉がスピードを上げ、どこかの木にでもぶっつかり、それが雪玉でなくなった時が終わりである。

これほど胸糞悪くなった小説は初めてだし、途中で放り出すか読了後に一秒でも早く焼き棄てようかとも思ったが、一晩寝かせてみたら思いのほか思う所が出てきた。
というよりも、放り出しゴミ箱に棄てる事で果たして「隣の家の少女」は救われるのだろうか?ということだ。

冒頭にも書いたように、ー回想の形式をとってはいるがーこの物語はデイヴィッド視点で進んでいく。つまり、デイヴィッドが現実の異常さを認識し、行動してメグを救えれば読者も彼女を救うことができる。しかし彼は勇気を奮い起こせない。恐怖、非現実感、そして13歳の、マグマのように根元的な欲望の兆しが彼を一歩遅らせてしまう。

デイヴィッドの後悔(と言うには重すぎる)は尽きることはないし、心の傷も憎悪も罪も、一生涯消えることはないだろう。後悔という焼印はあの瞬間、デイヴィッドの腹にも刻まれてしまったのだ。
そして、その刻印は読み手にも刻まれる。
いつだって時の流れは一方向で、現実は一つしかないのだ。


読後、暗い森を横切る姿の見えない小動物のように、わずかな罪の意識が心をよぎった。

「『しくじるんじゃないよ』ルースは言った。
『え?』ルースは指を唇にあてて、微笑んだ。」[隣の家の少女 J.ケッチャム/金子浩=訳 扶桑社ミステリー p320]

心臓を愛撫されているような抗えない魅力を、ルースに感じてしまったー。


この記事が参加している募集

#読書感想文

189,460件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?