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深夜らじおと

ラジオリスナーは、他のあらゆる観衆と違い、人間の声を訪問者のように家に迎え入れると考えればいい。(We need only reflect that the radio listener, unlike every other kind of audience, welcomes the human voice into his house like a visitor.)

ヴァルター・ベンヤミン「ラジオについての考察」拙訳、1931年。

思えば小さい頃から「」が好きだったと思う。
小学生でプロレスにはまり、中学生でヒップホップにはまり、高校生で深夜ラジオにはまり、大学では映画にはまった。

皆が眠りに付いている頃(深夜)に行われる地下(アンダーグラウンド)での光と影(ノワール)についてのエンターテインメント。

高校生の頃、その頃はそれほど仲良くなかった友達が、予備校の学習室に入る手前のスペースで私を呼び止めたのをよく憶えている。今と思えばかなり大きかったiPodを手に。その友達は、「これ、面白いから一緒に聞こう」的な意味に捉えらる言葉を私に拙く(つたなく)伝えようとしていたと思う。そこで流れた来たのが「リストカッターケンイチ」だったと思う。案の定、白い方(太っちょのおじさん)しか知らなかった私は、状況も相まってとりあえず愛想笑いをしてその場を切り抜けようとしていたのだと思う。でも、そのプッシャーは手強かった。勉強の息抜きがてら、といって毎回ドープなブツを供給してくれた。大学に入る頃には深夜ラジオなしでは眠れない身体になってしまし、今でも唯一の日本との接点として私を眠りに誘ってくれる。Junk発のTBS24時台経由のANN、ANN0行きというダイヤグラムは既にその時には出来上がっていた。



ラジカルな音

深夜ラジオには独特な中毒性がある。そこは皆に平等に開かれている、しかし同時に閉鎖された空間でもある。なので、各番組での独特のルールがあり、それに聞き慣れるまではかなりハードルは高い(例えば、猫についてのニュースから始めるラジオがある)。一方で入ってしまい、そこの村人になってしまえば、その音からはなかなか抜けづらいものがある。
魅力的なのは、2点に尽きる。1つ目に同じ「夜」を共有しているということ。私<->DJが同じ夜を共有しているという事実が、DJ<->私たちという擬制共同体を生み出してくれる。もちろん、番組によってはいわゆる「時空のゆがみ」が発生しているものの、基本的には私はそのDJを経由して、私たちリスナーと繋がっている。DJは私だけに語りかけることで、結果として私たちに語りかけてくれる。
2つ目はその双方向性だろう。深夜ラジオはたいてい前半のフリートーク部分と、後半のコーナー部分に分かれており、この双方向性が発揮されるのは主に後者で、リスナー(主に、「はがき職人」と呼ばれる人たち)は、その番組が設定したルールの中で自分の思いを自由に表現する。彼/女らの表現はある番組の基準によって選ばれ、そのDJの声を通して私たちに届けられ、その番組の内容を充実させることに貢献する。こうしてネタを読まれた人々は直接的に番組と繋がることができるのである。

一時期(2010年代以前)まで、深夜ラジオはある種のアジール性を備えていた。そこは、開放性と閉鎖性を兼ね揃え、そこには自由、平和、そして平等があったと思う。今は、そうしたアジールの解体が行われてきている。そのもともとの「世間との乖離」(聴取率の低さ)によって担保されていたアジール性は、インターネットが普及して以降はネットの三文記事枠に見つかってしまい、パロール(声)を暴力的にエクリチュール(文字)にされて、世間に晒されることになり、結果として焼失・解体へと向かっている。

正直、とても良いことだと思う。というのも、久しぶりに昔の深夜ラジオ音源を聞き直してみると、2021年の人間として聞くに堪えないネタが多いと思った。いや、2021年、現在でも「それは正直笑えない」と思える内容も一部にある。そもそも歴史的に、ホモソーシャル的な男同士の絆を前提としたコンテンツをデリバリーしてきたことが起因している。その土壌の上では、取るべき戦略はこれまた2つ。リスナー(村人)が喜ぶだろう「答え」を伝えて上げること、そしてリスナー(村人)とそれ以外の線を引くことで団結をすること。去年の深夜ラジオにおける一大事件はこのミックスだったとのだと思う(清水晶子先生のこの件についての真っ当な批判を『フェミニズムって何ですか?』より引用すると「社会保障の整備をおぎなう受け皿として性産業を使おうとするこのような発想は、明らかに収奪的で暴力的です」)。カリスマによる扇動は常に陰謀論に陥る。バカなリスナー(村人)に甘えんな、カスガ、と言ったところだ。

私たちに聞こえる特殊な電波

かといって、ルソー、カントやヘーゲルの本の端々にミソジニーが感じられるからって、彼らの本を読まないことにはならないように、これまでの深夜ラジオによって教わったことが多分にある。まずは、フリートーク用のネタがない時に、ないはないで、ないということを話すことだ。なんて素晴らしいのだ。つまり、書けないということについて書く選択肢を残すということだ。私はここに正直本当に救われた。締め切りがある中で、ネタがない場合でも、なかったことについて語ることでそれがネタになるということに素晴らしさがある。つまり、私の人生に事件が起こんなくたっていいのだ。事件が起こんなかったことを語る技術を付けていこうと思う。

それから、彼/女らはラジオという媒体があることによって、人生を客観視できるようになっている。つまり、家具の角に足の小指をぶつけようが、家族や恋人に嫌なこと言われて落ち込みようが、それが「あなた」に共有すべき現象として認識できるようになる。逆に何か、自分の通常の範囲では挑戦しない新しいことでも、「これはネタになるかもしれないから」ということで新しいイベントを自ら探しに行くことにもなる。

悪について

概して、しょうもないネット記事によって、これまであったホモソーシャル的なアジール性を徐々に解体していって欲しい。それこそ、ジェンダーに関係なく誰もが楽しめる開放性・自由・平等、そして新たな平和を深夜ラジオが実装するために。そして、私が信頼しているDJのほとんどがそうした新しい地図(Episteme)の中で、常にその境界線をなぞることによって新しい言葉(Notion)を生み出してる。そのことにいつも励まされている。いずれ、市場という光に覆われることによって、場所をなくしまうであろう深夜ラジオという陰。その闇に迷ってしまった民を救ってくれ!!!私もその一人だ。


そのサポートは投資でもなく、消費でもない。浪費(蕩尽)である。なぜなら、それは将来への先送りのためでも、明日の労働のためでもなく、単なる喪失だからである。この一瞬たる連続的な交感に愛を込めて。I am proud of your being yourself. Respect!