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leereの由来:空虚な主体をめぐる雑感

名前の由来。

leereとはドイツ語でリーレと読むらしい。語感や、筆記体で書くとくるくる回るところが可愛い。そして「空っぽ」という意味に寄り添えると思った。

人生が無意味に思えたり、孤独感に苛まれたり、努力の空振りや、力になりたくてもなれない無力感など、空しいという淋しさを経験したことがある人、抱えながら過ごしている人はとても多いと思う。それは、子供でも大人でも、悲惨な環境に身をおいた人はもちろん、どんなに恵まれているように見えても、訪れてしまうことがある。

空しさは懊悩しやすい。だから、もし、そのような悩みと無縁で、あるいは克服できて、自分の人生が充実していると感じられれば、それはとても素晴らしいことだと思う。

ただ、そのような充実した生き方からほど遠く、常に空虚感や虚無感が共にあったとしても、だからこそ生まれる価値もある。

例えば、空しさを知っているからこそ、他者の哀しみにも想いを馳せることができる。よく、当事者でないと救えないと言われる場合など、まさに負の経験が価値に転化している。また、自身の抱える孤独感が深ければ、他者に思いを馳せても、安易に人の気持ちがわかるとは考えない。だからこそ、幻滅から始まってもなお、自分と他者の間に橋を架けようとする事態を目にしたとき、その尊さを感じとることが出来る。それは自分の指針にもなる。

哲学は、存在を意味づける思考の枠組みを露わにしようとするので興味深い。自分がこれまで拘泥してきた価値観の枠組みが暴かれて、また別な思考の可能性と、その価値に出会う。個人的には、突き詰めれば、自分どころか、宇宙の存在ですら、そもそも大した意味は無く、確かなことは「今在る」というだけで、全ての意味づけは恣意的である、ということを実感した。

このナイーブな実感は、自分の中では大事な鍵となった。自分の人生と、目の前を這う虫の一生と、この世界全体の価値は、本質的には等しくて、生きて、終わる、という、それだけ。この事実しかない世界では、意味がないことも意味があることも同値であり、今在るというこの生を全うする、それに尽きると思った。そして、色々な雑念を、いったん捨象することができた。

その中で、自分自身に目を向けると、その認識もまた曖昧なものに映る。自分が何者かに迷ってしまう苦しみを目にすると、あるいは、自己の主体性が完全に奪われる悲劇を目にすると、確固たる自己があり、そこから自由に主体的に生きていけることがいかに幸せなことであるか、身に染みて感じられる。ただし、自己自認という言葉で思うのは、自分は自分がこうであると思いたい、という願望と、<正当な>自己認識の間の差異を、どんな根拠で埋めるのかという疑問である。自分自身の本当の姿を信じることは、知ることとは厳密に違う。もちろん、抽象的な疑問など蹴散らして信じることができれば素晴らしく、それで疑問は一度解決し、あとは自分で自分をどう表出していくか、という段階に移るけれど、あくまでも知ることにこだわった場合、自分の本質は、自分にも、ましてや自分のすべてを経験し得ない他者には、決して明らかにできないように思える。私は、自分が何者であるか、本当のところはわからないし、もはや探さない。

自分の真の姿、あるいは素の自分といったものがどうしても見つからなくても、そのあとの人生、必ず恐ろしい世界が待っているわけではない。

生きている限り、関係性の網目の間に私たちは在る。生きるという宿命がただひたすら、存在をまっとうすることであるならば、それは関係を大事にすることでもある。多くのそうした存在に支えられて、私も今がある。植物を育てていれば、水をあげるし、部屋が汚れたら掃除をする。友人が悩みを話したいときがもしあれば、力になれなくても、話を聞くくらいはしたい。娘が日々一生懸命生きようとしているのをみたら、サポートしたい。小さなことでも、当たり前のことでも、何かしらの自分の役割をそこに見出すことができる。

自分自身の持っている経験や知識、感情の揺れすらも、自らが手に負える範囲で、駒として使うことに集中できれば、本当の自分が何者であっても構わない。素の自分は、色んな関係性を大事にする中で、多面的に浮遊している。中心は空虚かもしれないが、それでも粛々と虫のように、同時に人間らしく生を愛でて、日々を暮らすことはできるだろう。

leereはドイツ語で「空っぽ」という意味。論理的には矛盾を孕むけれど、私は、空っぽであることを自分のアイデンティティにしようと思った。

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