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noteのコメントに自分の人間性を反映できない

こんにちは。リーコです。
表題の通り、最近の悩みはこれです。

私はSNSに不向きという自覚があり、情報過多でしんどくもなるのでnoteとfacebookだけやってます。そしてnoteは信じられないくらい平和なプラットフォームで、歓喜しています。素敵な記事がたくさんあり「めっちゃ共感」「この人の文体すき」色んな感情をもらっている。それを伝えたい、という思いに駆られるのだが

いや初対面でコメント長ない?重ない?
こうゆう意図で発信してないかもよ?
絵文字つけた方がええんちゃう?
まずは「ありがとう」言うてからやろ?

黒リーコが頭の中でいちいち添削してくる。
そして結局コメントする手を止める。

普段のLINEでもこうゆうせめぎ合いが自分の中にあって「段落毎に返信した方がええんか?」「え?これってここで終わっていいやつ?」など。だから本当にLINEのラリーが苦手。ほななんでnote書いてんねん文章好きなんちゃうんかいって話なんですが、文字でのやり取りがダメみたいです。要は「顔見てしゃべろーぜほななんかバチバチっと分かり合えそうやん」タイプなんです。ごめんなさいパワハラ上司です。


そんな思いを抱えていたら友人が1冊の本を送ってくれた。


意外だった。というのもこの友人はサブカルに精通した奇抜なタイプで、いつも変わった本を読んでいる。大学時代、ハロウィンの仮装は普段通りの自分に額縁だけ持って「これ?モナリザやん」と言い出す突飛な子(麗しいので本当にモナリザだった)。そんなおもろい子に自己啓発本を勧められたのは初めてで、俄然興味が湧いた。読み進めていくと神道の中今といった精神性にも触れていたり、友人が好きな身体技法の分野にも関わっていて、勧めてくれた意味を理解できた気がした。


本書のメインメッセージは「幸せを自覚して、正直な自分を愛して、効率を求めず、五感を研ぎ澄まして、歓喜すること」。これ、現代人の真逆ではなかろうか。

表層のコミュニケーションに慣れ切ってしまって、効率重視で自分の本音すらわからなくて毎日疲れてる。noteのコメントだって思ったことをそのまま言葉にすればそれで済むことを、心の中でわざわざぐるぐる煮詰めて不味くして、鮮度を失って焦げ付いた言葉を出して相手が美味しい訳ないし、自分の人間性が反映されるはずがない。コメント欄に限らず、普段から表面上のコミュニケーションを求められる、”正直”を自ら排除してる場面って、本当にそれが必要なのか。私たちはもっと正直に腹割って、ぶつかって、面と向かって話をする必要があるんじゃないのか。これはパワハラですか。

「調和?お互いに頭を下げ合って、相手も6割、こっちも6割、それで馴れ合っている。そんなものは調和じゃない。ポンポンとぶつかり合わなければならない。その結果、成り立つものが調和だ」

本書の参考文献「岡本太郎痛快語録」より


岡本太郎は50年以上前から知ってたんだね。すごいよ太郎さん。

だから(この記事を免罪符に)的を得ないコメントをするかもしれませんが、どうか「あなたの記事を読んで歓喜している」ということだけ伝われと思って、コメントします。

以上、リーコでした。

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