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幸福と労働の回りかた

ドストエフスキーの『死の家の記録』では、気を確かに持つために、刑務所内の仕事に黙々と励む囚人たちの姿が描かれている。中には酒の密売や密告に励む者もいるのだが、それぞれの「精神の程度」に応じて、何かをせざるを得ないのだ。仕事というのはキツ過ぎると心身に異常をきたすが、暇過ぎたり、意味がない仕事をやるのも、それはそれでキツい。

ソ連時代のロシアの公共施設では、トイレの入場受付係にその秘書までいたという話を聞いたことがある。労働者の国・社会主義国では建前上とはいえ失業者はあってはならず、あらゆる仕事が作られたという例だ。さぞや「やり甲斐のない」仕事だろう。

では、意味のある仕事といっても、細分化され過ぎた仕事は、それはそれでキツいかもしれない。むろん分業というのは生産性向上の基本だ。このことは経済学の古典といわれるアダム・スミスの『国富論』でも冒頭でまず挙げている。曰く、針を一人で製造しようとすれば、いくら頑張っても1日で一本が関の山だが、十人で分業すれば1000本は作れると。

自分が針産業の当時資本家なら当然分業化して生産を最大化するだろう。しかし労働者の身になったとき、例えば、針の先を尖らせる工程をずーっとやりたいだろうか?キツいだろう。これが弟子と共に武士の刀を作る作業(刀匠)とかなら俄然興味が湧くが、毎日針の先だけを見つめていると病気になるだろう。針ぐらいなら工程をスライドさせながら分業を回すということも可能だが、職人としての矜持は生まれにくいかもしれない。

それが意味のある仕事で、且つ分業化されていない仕事だとしても、誰かの指示を逐一聞かねばならず、その割に全体像を教えてもらえない下っ端も、やはり面白い仕事ではないだろう。

もちろん世の中の仕事というのはほぼ例外なく何かの分業なのだが、やはり、人の役に立っているという実感や、自分でコントロール出来ているという感覚を持ててこそ楽しくなる。案外、ビジネスより社会的事業の方がその環境を獲得できる確率は高いかもしれない。年収より意義を優先して成果を上げ、むしろビジネス的にも評価を上げた人もいると聞く。

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