見出し画像

思い出は痛みとともに

人生において「痛み」の記憶は鮮明なものだ。
失恋の痛み、大切なものとの別れといった精神的な痛みから、骨折、病気といった肉体的なものまで、痛みの種類は多様である。
未だに血が流れたままの失恋の記憶の話もいいが、今回は「少年期に最も痛かった」思い出の話にしようと思う。失恋の話は、書きながら僕が泣くことになる。
グロテスクな痛々しい話や、流血の話ではないので、気楽に読んでいただきたい。
ただ、虫が苦手な方、ごめんなさい。

僕は小学生の頃、自他共に認めるほどの「昆虫博士」であった。
毎年の自由研究のテーマはいつだって昆虫、昆虫、昆虫。将来はファーブルになるつもりでいた。昆虫の本だけで食っていくつもりだった。のちに自分が完全に文系だと知ったときは、愕然とした。
その年の夏休み、自由研究のテーマは「近所にいる昆虫」。夏休み期間中にたくさんの昆虫を捕まえ、記録して模造紙にイラストを書くつもりだった。
その日は快晴だった。今ほど気温は高くなかったはずだ。蝉の声がする。すでに胸は高鳴っている。今日はどんな虫がいるだろうか。新種はいたりしないかな。小学生らしい妄想もした。今でもときどき、同じような気持ちになる。新種を見つけるか、突然スカウトされるか。妄想だけが今も僕を支えている。
話を戻そう。時は戻せないが、カラスアゲハを捕まえたときの感動は忘れられない。黒一色ではなく、角度によって青や緑に輝くあの羽は、生命の美しさそのものだと今も思っている。ミヤマシジミの鮮やかな青は、空よりも純粋な青だ。今でも蝶を見かけると、少しわくわくする。
家の庭や近所だけで、今となっては信じられないくらいの昆虫を捕まえられた。気分はやっぱりファーブルである。
そういえば、最近はカブトムシやクワガタなんて、めっきり見なくなってしまった。悲しいというか、寂しい。僕が小学生の頃は、朝早くなら電灯の下にわらわらいた。ホームセンターでわざわざ買うほうが珍しかった。昆虫採集には世知辛い。
今日はよく話が脱線する。昆虫のことだからまあいいか。
庭先で採集した虫と、昆虫図鑑とを照らし合わせる。蜂など、危ないものは写真で記録した。当時はフィルムカメラなので、現像待ちだ。
記録したものは逃がす。もともと庭先にいたのだから、そっちのほうが居心地もいいだろう。
さまざまな虫を記録し、残りはバッタやキリギリスの類だけになった。
カンタンという虫は緑が美しい身体をしている。鳴き声も美しい。バッタは、一応世界最古の害虫である(はず)。庭先の草花は、だいたいバッタが食べている。
あと一匹で今日の分の記録が終わる。これは、キリギリス、かな?

がぶっ。

音がしたわけではない。ただ、僕がこの出来事を思い出すときはいつだって、このような効果音がつく。キリギリスに噛まれた。
この騒動のすぐあとになってキリギリスではなく、ヤブキリという虫だったとわかるのだが、このときはそれどころではなかった。痛い。
僕は大声で泣いた。流血すらしていないのに、痛い。小さいがしっかりとした顎が、僕の右手人差し指を離さない。ペンチで掴まれているようだ。
母が急いで僕のところにやってきて、ヤブキリを離そうとする。しかし、離れない。母はとっさにヤブキリを潰そうとした(らしいのだが痛みしか覚えていない)。
「やーめーてー!」
ヤブキリが言ったわけではない。僕の大絶叫である。近隣500mには響いたであろう。とはいえ、やめてなどといった覚えはない。母がとっさに虫を殺そうとしたことすら知らないし、覚えていなかったのだから。
「やめて」と僕が言ったのは、母に対してではなく、おそらくヤブキリに対してだったのではないか。今になって気付く。
母は当時の僕の優しさにいたく感動したそうだが、優しさなど僕にはない。妄想だけで僕は生きている。そしておそらく、あの発言は優しさではなかった。
どうやってヤブキリを離したのかは覚えていない。ただ、半泣きのまま昆虫図鑑のページをめくり、ヤブキリという虫だと確認したことは覚えている。内心この野郎、とは思っていた。

夏が来ると、まだヤブキリを見かけることはある。未だに怖くて、触るのは控えている。
そして何より悲しいことは、以前よりも昆虫をはじめとした「好きなこと」への熱意が減ったことだ。大人になったからなのか、ただただ無気力なだけなのか。カラスアゲハの美しさも、クワガタのかっこよさも、あの頃からずっと一緒なのに。
ファーブル昆虫記を手に取る。なりたかった自分とは違うけれど、生きていくのだろう。蝉の声がする。
もし明日晴れたら、花に群がる昆虫を気にしてみよう、と思った。あの頃のようにまた、わくわくするはずの夏だと信じて。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?