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?歳、言い訳の記憶

その日は、幼稚園のみんなで近所までお出かけだった。
やんちゃな子、のんびりした子、おませな子。
僕はといえばひどい泣き虫で、いじめられては泣いてばかりいた。
幼稚園のそばのだだっ広い空き地に、大人4、5人くらいの高さのある崖があった。
「今日はみんなで崖のぼりをしよう!」
先生がそう言い、みんな一様に崖を登りだした。
当時から運動が得意ではなかった僕は、ぜえぜえはあはあ言いながらようやく登った。
「はーい。よく登ったねー!」
先に上に行っていた先生が手を伸ばす。
疲れ切っていた僕はその手を掴み損ねた。まっすぐ崖下に落ちていく。
僕の記憶は、そこで終わっている。

いや、なんだこれ。
多くの皆さんはそう思ったに違いない。
そんな高さのある崖を幼稚園児に登らせるはずがない。だが僕は、この記憶を事実だと、つい最近まで信じていた。
おそらく夢にでも見たであろうこの場面が、僕の中では「実際の記憶」になっていたのだ。
つい最近、幼馴染との会話で事実ではないことが確認されたとき、愕然とした。この出来事を「馬鹿の言い訳」にしていたからだ。
僕は、幼少期は、というか高校生になるあたりまでは、それなりに勉強が出来た。学年で1、2位ということもよくあった。運動があまり得意ではなく、容姿も優れてはいない僕にとって、「学力」は数少ない誇りだった。
勿論、これまでのエッセイにあるように、高校の途中から落ちぶれる。大学の授業に完全についていけなくなるほどに。高校の途中に何があったのかと言えばひどい失恋で、その話はまたいずれ書くだろう。生傷のままの失恋である。今も出血したままだ。そしてときどき思い出す。
だが、失恋を言い訳にしているようでは、相手の女性に悪い。あんな素敵な方を、俺が落ちぶれた理由にしてはならぬ!そう思った僕は、言い訳を探しまくった。勉強をすればよかったのに。そういう正しい意見は当時の僕には響かなかった。今なら本当にそう思う。勉強をすればよかったのに。
言い訳、というのはどこかに落ちているわけではない。国語教員の声が悪い、と言ったところで皆同じ教員の授業を受けている。暑さや寒さも同様だ。条件は皆一緒なのだ。
ならば体調か?と僕は思った。だが、今でこそ半日起きていられればいいような体調だが、当時の僕は健康そのものだった。
言い訳に悩む日々の中、ある日ふと思い出した。厳密に言うと思い出したのは過去の記憶ではなく、つくられた記憶か、夢だったわけであるが、とにかく思い出した。「なんか昔、頭打たなかったっけ?」
身体が急に軽くなったような気がした。そうか、俺の出来が悪くなったのはそのせいか!勿論、色恋にうつつを抜かしていたことが本来の原因である。だが、この言い訳を見つけたおかげで、僕の身体と心に羽が生えたのだ。
我ながら面白いな、と思ったのはここからである。この言い訳を見つけ出したことで、逆に勉学に身が入るようになったのだ。
頭を打っているのだから(勿論打ってはいない)、限界というものがある。ならば、完璧でなくてもいいから頑張ってみよう。そこから少しずつ頑張れたことは、ちょっとだけ誇りに思っている。漢字検定で1点足りなかったり、大学では結局落ちぶれたりするのであるが。
言い訳を見つけようとしたことは、勉強から逃げる理由探しに他ならなかったのに、結果として勉強をすることにつながった。そう考えると、言い訳を探したことも、もしかしたら今のようなつらい日々も、何かに繋がりうるのではないか。そう思ってみると、おそらく夢であっただろう偽りの記憶にさえ、きっと意味はあったのだ。
ありがとう、偽りの崖のぼり。幼少期の「雪見だいふく」と呼ばれていた頃の自分からは程遠いけど、言い訳や逃げ道を探しながら、もう少し生きてみるよ。

これを書きながら、実はしなければならないことがあって、今それから逃げる言い訳を探している。まったく思い浮かばないので、おそらくもう少ししたら、動き出すでしょう。言い訳もいいけど、やるときはやらないと。
うーん、でも。そう言いながら上がらない腰は、とにかく重いのだった。

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