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アパルトヘイトから考えた人権とは?

こんにちは!
フリーライターのユリです。

今回は、歴史メディア(レキシル)記事紹介の第2弾をお届けします。

第2弾は…「アパルトヘイト」ついて。

〈注意書き〉
この記事を読んでから本記事を読んでもらっても、
本記事を読了後にこの記事を読んでも、
どちらでも構いません!


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本日12月10日は世界人権デーです。
それにちなんで、この記事を選びました。

奴隷解放宣言が為された「南北戦争」も紹介したいと思ったのですが、1記事にまとめるには多すぎるため、また別記事でご紹介します!

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アパルトヘイトとは、
白人と黒人を社会的に分離するという人種差別的な政策のことです。

この差別政策は南アフリカにおいて1948年から1994年まで続けられ、その間は白人に有利な社会が築き上げられていました。

第1弾のときと同じように、
ここではレキシル記事をより理解し楽しく読めるように「アパルトヘイト」の補足情報を紹介しますね!

そして、「人権の大切さ、尊さ」というものに想いを馳せられたいいなと思います。

アパルトヘイトが奪った命

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レキシル記事にも記載されていますが、
アパルトヘイト下の南アフリカでは大勢の黒人たちが理不尽な政策によって命を奪われました

当時南アフリカでは16歳以上の黒人に身分証を持参するよう義務付けたパス法という法律があり、身分証を持参していないと逮捕される恐れがあったのです。

それに反発した人々が身分証を持たずに抗議した結果、警官達が発砲を開始69人の尊い命が奪われました。これが「シャープビル虐殺事件」です。

現在では考えられませんよね。
身分証の所持を義務付け、それがないと逮捕。
抗議すれば虐殺だなんて…。

このほかにも、抗議運動は発生していますがいずれも多数の死傷者を出しています。
黒人の人々はただ自分たちの人権を尊重してほしかっただけなのに…。

アパルトヘイトと闘った人々の声

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苦難な状況にも負けず、アパルトヘイト下で黒人の人権を訴え闘った人々がいました。

代表的な人物は、ネルソン・マンデラです。

投獄されつつも人権回復を諦めず、平等な権利を求めて闘ったマンデラ氏。

そして、1994年にマンデラ氏が南アフリカ大統領になったことでアパルトヘイトは完全に廃止されたのです。

しかし、アパルトヘイト撤廃に向けて闘ったのはネルソン・マンデラだけではありません。

反アパルトヘイト運動に参加した若者たち。
アパルトヘイト下でも必死に生きた家族。
反アパルトヘイトを訴えながら歌うアーティストたち。

彼らもアパルトヘイトと闘った素晴らしい人々です。

アパルトヘイトを通して考えた人権

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アパルトヘイトの記事を書いていたとき、
私の中には複雑な感情が渦巻いていました

怒り、悲しみ、疑問、驚愕、恐怖。

一言では言い表せないものです。

最も驚愕したのは、アパルトヘイト施行中に日本が南アフリカと交易していたこと

経済上、仕方ないことだったのかもしれませんがショックでした。自分の母国が人権を蔑ろにする国と唯一交易していたなんて…過去のこととはいえ、何ともいえない怒りと悲しみが押し寄せたものです。

そして、先進国たる国に住む我々は、知らず知らずのうちに他者の人権を蔑ろにしているのかと思うと怖いとも思いました。

日々人を傷つけない文章や言動を心がけていますが、未熟な10代や20代のころには知らずに傷つけていたかもしれないのです。
決して他人事ではありません。

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人権とは、
人間らしく生きる権利。
誰もが持っている権利。

私たちは、これを疎かにしてはいけないのです。

アパルトヘイトに関しても、遠い国で起こった過去の非道な出来事として考えないでください。
いつでも同じことは起こり得ます。

アパルトヘイトは、悲しく悲惨な出来事でした。
しかし、過去から未来へ教訓を伝える出来事でもあります。

どんな肌をしていても、
男でも女でも、
誰を好きでいても、
どの国に住んでいても、
どんなことを信じていても、

人を人たらしめる人権は、決して蔑ろにしてはいけないのです!

レキシル記事では、
アパルトヘイトの意味や影響、撤廃までの詳しい流れまで解説してあります。

世界人権デーをきっかけに、ぜひアパルトヘイトについての記事を読んでみてください!

それでは、また次回の記事でお会いしましょう♪
ユリ






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