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後ろめたさを抱える夏

2021年の夏、東京でオリンピックが開催される、らしい。

あまりにも実感が伴わなくて、いまだに本当に開催されるのかもわからなくて、こんなにもそら言のように、書いてしまう。

あとわずかな日々が過ぎたら、オリンピックは開幕して、いつのまにか終わっている。どこか遠い国の出来事のように。

アメリカの大リーグでホームランを打ち続けている大谷さんのことは手放しに応援できるのに。狭くて人の多い日本の東京で行われるオリンピックの選手たち、そして、その選手たちの活躍を応援することに、どこか後ろめたさを感じないだろうか。

オリンピックを東京で強行することで、誰かが無理をしていないか、我慢していないか、犠牲になっていないか。そんな後ろめたさを感じずに、素直にどうやって応援すればいいんだろう。

払う犠牲と得られる代償の天秤は、誰の正しさではかるのか。誰もいないスタジアムでプレーをする選手、それを、一人ひとりの部屋のテレビで見る。集まって歓声を出すこともできない。みんなで談笑しながら、美味しいものを食べながら、飲みながら、応援することもできない。そして、その瞬間にも病気で苦しんでいる人もいるし、現場でケアを続ける医療従事者がいる。否応なしに数万人単位の人が滞在し行き交う東京では、間違いなく罹患者は増えるし、そのあいだも街に住む人の生活は当たり前に続く。

誰かが犠牲を払って、その犠牲で誰かが利得を得る。そんな大会で、私たちは何に感動し、選手たちはどんな感動を与えるのだろう。「オリンピック見た?すごかったよね」みたいな普通の会話すら、なんだか口にするのもはばかられる、なにか政治的な話題に触れてしまったとき特有の気まずさがある。そして、いつものように、まるで決まっているかのように物事は進んでいく。けれど、頭のなかの問いはいつまでも止まったまま、答えは出ない。

こんなにも、わかりやすく人の生活が、日常が踏みにじられたものはない。私たちは、いつも理不尽なことで、日常で傷つくことは経験している。でもこれから大変なことが待ち受けているのをわかっていて、その場を離れられない人の日常を、想像しないではいられない。

この「後ろめたさ」をなぜわたしたちが抱えなければならないのか。


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