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食事とコミュニケーション

 普段から何気なくしているが、考えてみれば食事とは奇妙な行為だ。

 生物の生存理由とは、突き詰めれば自分の遺伝子を次の世代へ受け継ぐことだ。その点において、より確実に次の世代へ遺伝子を残すためには安定的な栄養供給が必要なはずだ。その点において食事は非合理的だ。獲物を確実に仕留め、食べられるとは限らないからだ。そう考えると光合成のほうがはるかに合理的である。水と二酸化炭素と太陽さえあれば自給できる。つまり安定して栄養を得ることができるということだ。

 私は食事が嫌いだ。もちろん生きるためには栄養が必要なので、毎日三食きっちり食べている。しかし先述した理由からどうしても行為自体に納得がいかなかったのだ。もちろん私自身は生物学への造詣が深いわけではないため、実際のところはなんらかの合理的理由があるのかもしれない。だが直感的に理解することができないのだ。

 友人の一人が、この話に興味を示してくれた。曰く食事についての本を先日読んだらしい。その本の主張していた食事の意味とは、体内で増大するエントロピーを食い止めるためだという。我々の体は常にエントロピーが増大する方向にはたらいている。それを食い止めるためには自分の体とはまったく違った秩序で動いている他の生物を摂取する必要があるのだそうだ。この考えにはとても驚かされ、また興味深く感じた。この考え方に従えば、確かに食事は合理的だ。それと同時に、異なる秩序をもったものを取り入れることで生きながらえるという考えに、ひっかかりを覚えた。

 私はこの話から、食事を異文化理解として捉えられると考えた。異文化理解という言葉はグローバル化に伴い頻出する言葉となってきている。定義に立ち戻って確認すると、異文化理解とは異なる文化や秩序を自分の中で理解し受け入れることだ。またその過程には、その相手に対する信頼が必要である。異文化を取り入れることで、自文化が保ってきたものが崩壊してしまうかもしれないからだ。これは先ほど説明した食事の構造とも通ずる。つまり食事をこの文脈の中に当てはめるならば、異なる秩序をもったもの(これが他の生物のことだ)を自分の中に受け入れる(口に入れる)と言い換えることができる。またその過程に信頼が果たす役割も共通している。食材への信頼がなければそのものを口にするということはない。もし食材が汚染されていたとしたら、体を壊してしまうかもしれない。このように異文化理解と食事は非常に共通した構造をもっている。またこの食事というものが人間にとって生命維持のために必須だというのも興味深い。異文化理解を重ねなければ人間は生きていけないのだ。

 この考え方からはある種の希望も感じる。世界中で社会の分断がさけばれて久しい。先日行われたアメリカ大統領選挙でも、両候補の票も拮抗し、アメリカ社会が真っ二つに分断されていることが浮き彫りになった。この分断構造は、もちろん一朝一夕で調和していくとは到底思えない。しかしながら、私たちはそれでも相手のことを理解することができるかもしれない。なぜなら我々は普段から異文化理解の過程を繰り返しているからだ。そこに微かな希望が感じられたように思えるのだ。

 希望的な観測に過ぎないかもしれない。このまま分断されたまま世界は続いていくかもしれない。しかし僅かでも希望がもてることを私は信じていきたい。そうして私は今日も信頼関係の下に異なる秩序のものを受け入れることにする。

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