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自由に旅ができるまで。

様々な制限の中で生活をする世界中の人。「自由」「不自由」について考えさせられる日々が続く。

こんな時、自然と手に取りたいと思うのがよしもとばななさんの小説です。

どの作品にも安心して「この不安を頼みます!」と預けられる器のようなものを感じる。

世界中の言語に翻訳されているので、海外の方に「ジャパニーズ文学を読みたいけれど何から読めばいい?」と聞かれたら(これが結構よく聞かれる)「I would start with Banana Yoshimoto!」と答えます。

『キッチン』は名作ですが、出版された1988年から32年経った今でも全く色褪せません。むしろ今のほうが当初より身近に感じられるのでは、とさえ思う。

先日英語のポッドキャストでインタビューを受ける機会があり、1時間『キッチン』のお話をしました。私などが語って良いのだろうか...とヒヤヒヤしながら、インタビュアーも『キッチン』の大ファンということで、オリジナルと英語版の違いなどを少しお話しました。

(英訳も素晴らしいです。一度だけ登場する菊池桃子さんのお名前の「菊池」がなぜかSakuchiになっていて「ヒェっ!」と声が出てしまった以外は...そ、そこ?とちょっとオロオロした。ファクトチェック...)

時々そういうことがあって、立ち直るまで時間がかかるので実はあまり英訳が読めなかったりします。

今日読んだのは、英訳されていない『スナックちどり』。

表紙から癒しが始まっています。(読み終わってもデスクに立てかけて眺めています。今はどこにもいけないから尚更でしょう)

40歳を目前にして「離婚」と「育ててくれた祖父母の死」を経験した従姉妹ふたりがイギリスの小さな町ペンザンスに旅に出る。

都会の喧騒を離れ、静かな海辺の田舎町に癒されながらも不意に襲う寂しさや不安に耐えながら、心の自由を求めていく、というお話。

自由なのに、ちっとも嬉しくない。心が広がらない。目の前はだだっ広い海なのに。でも、そんなのでいいや、と思った。別にこわくない。いつまでだってこんなふうでもいいや。
まだ生きてるんだもの。味わっているもの、景色を。
私の目が勝手に生きてる。
心は動かなくても、私は笑っているし、歩いている。
そのことにどんなに救われるか。そう、ちどりのそうじと同じように。目的はなく、目標がない行動が、どんなに楽にしてくれたか。
(『スナックちどり』p 99-100)

人に愛されることに命がけだった夫と離婚をした語り手、「私」。両親を早くに亡くし祖父母に育てられ、大好きな祖父のスナックを継ぐ前に心にぽっかり空いた穴を埋めようと旅に出た「ちどり」。

物語が単純でなくなるのはふたりの複雑な寂しさと、それを埋める言動。たった2分前までは想像もしていなかった行動を起こす人間の「キャパシティ」というか「可能性」を感じる。

心が非常事態の時、私たちは想像もしなかった行動を取る。

よしもとばななさんの文章を読んでいると、その思いもよらない行動がとても自然なことだと納得させられてしまう。

あとがきには、お父様がお亡くなりになった直後によしもとばななさんご自身が家族とイギリスへ旅行した、と書かれている。

小説のような色っぽく薄暗い旅ではなかった。毎日びっくりするほどビールを飲んだり、スピリチュアルな遺跡を求めてさまよったり、幽霊の出る井戸の底をじっと覗き込んだりして、みんなでずっと笑っていた。(あとがきより)
やっとの事で生きていた時期であろう、弱っているこのふたりの女性の姿を小説の世界に焼きつけることができたことを、嬉しく懐かしく思う。(あとがきより)

どこにも行くことができないこの時期にこの小説が読めて、心だけは少し解放されたように思う。

早くまた自由に旅ができるようになりますように。

そして自由に旅ができるようになったとき、心も自由を感じられますように。

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