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未完の天才になるな


私の仕事は作家のエージェント。この仕事をしていることをいうと、相手の反応はだいたい3パターンに別れる。

1つは、「なんかよくわからないですね」という反応。これは仕事の内容が一般的ではないからしょうがない。2つ目には、敵意か賞賛を向けてくるパターン。何かと残念ながら悪い意味で話題の的になりやすい業界なので、「さあてどんなもんか確かめてやりましょうか」という腹づもりで探りを入れにくる人もいる。俺はこんなに業界のこと俯瞰的にわかってますよという自信のもと、練りに練られた秘蔵のダメ出しをお寄せいただくことも多い。逆に文章業に憧れのある人や、光栄なことに文化的な事業を評価してくれる人には、職業を伝えるだけで褒めてもらえることもある。業界の他の人物ならともかく、自分が持ち上げられると恐縮してしまう。

3つめのパターンは、半分は冗談、もう半分はこちらの反応を探りながらひねり出された本音であろう、「じゃあプロデュースお願いします」という反応だ。ジョークとして差し出された言葉の場合は、相手はただヘラヘラ笑ってすぐに次の話題に移ってしまうことが多いのだが、本気度の高い人は追ってこういう風にいう人も多い。「私もいつかは書きたいと思っているんですよ。自分ならやればできると思います。」

それを受けて今何か書いているのかと聞くと、頭をゆらゆらと降る。「今は何も。でも昔から書くのは得意な方だと思います」個人の何かのモードに入ったのか、ぐっとどこか遠くの方を見つめる。「〇〇や××みたいなのが昔から好きで・・・構想はもうあるんです」「最近は△△みたいなのあるじゃないですか。何ですか、あれ。あんなんか評価されてちゃ駄目だと思いますね」そして自作の長いストーリープロットとキャラクター設定の話になり、どう売っていくかの市場戦略を話しきったあとは、耳年増の女の子のような深いため息。「どうです、面白いでしょう」そうして、今しがた私の存在に気がついたとでもいうように、ようやく目をあげる。「書けば、こんなにも面白いものはないと思います。」

「ではお書きにならないんですか。書けば評価してもらえるし、本当に良いものなら形にして行きやすいと思いますよ」なぜか、グッと詰まっている。話の当然の帰結なのに、それは予期しなかったとでもいうように一瞬止まる。「ええ・・・まあ、最近は忙しいから」「ほう」「・・・遠山さんはどう思いました?」「作品そのものを見てみないと、さすがに何とも。軽々しく判断はできないので」「え、あ、はあ、」

“こういうこと”は本当によくある。“こういうこと”というのは、職業上こういった話になりやすいということもあるし、こういう心理は痛いほどわかる、という意味もある。「構想と狙い」を話すことはできても、本当にそれに挑戦することはない。やれば出来る、という自分への期待を残すために実践せずにおく。これは、他人においても自分においても良くあることではないだろうか。

どんな考えもアイデアも、自分の頭にあるうちは恐ろしいまでに完璧なものだ。なにせ、観客も評価する人も自分だけなのだから。アラもミスも能力不足もあるべくもない。できるだろう、という曖昧な予測に守られたそれは、歴代の大作家の名だたる名作とも比肩できる代物だ。自分の能力が可能性として担保された状態が、心地よくないわけはない。

本当にそれに挑戦した人間だけが、その安定の地の先を知っている。あんなに書けると思っていた幻想が脆くも崩れ去り、自分のうちでは大文豪もかくやと思われたセンスと才能とキレもなく、ただ語彙力や表現力のなさを露呈させたつまらない駄文も駄文がそこに連綿と連なっている。何だこれは。誰が書いたんですか?私です

外側から客観的に見ていたときには、余裕でできるだろうと思っていたことができない。これぐらいは最低でもと思っていた水準にも届かない。自分のいる場所の惨めさに気づいてしまう。こんなはずでは。才気に満ち溢れ、業界に彗星の如く現れて発表するや大賞賛を受けるはずだったのに、今の自分にあるのは書き散らかした駄文と尖りきった傲慢な精神と、それでも何とかならないかと狙うおぞましいまでの狡猾さだけだ。自分の可能性を安穏と信じられていた時代が懐かしい、いっそ戻りたい。大声でだれかの批評をしていた愚かな自分ですら、今は羨ましくも感じる。

相当な才気とよほど運に恵まれた人でなければ、多くの人間はこれらの道を歩むことになる。でも本当の意味でこの道の苦難を知る人間もまた、限られている。なぜなら大半の人間が、こうなることを内心予感して「できるけれど、まだやっていない」スタンスに留まろうとするからだ。まだ構想だけ、アイデアだけという未完の場所に停留することで、その先に進むことなくさもクリエイターの一端であるような気分になれる。先ほどあげたような人もその一員なのだろうし、その甘さとずるさは間違いなく自分のなかにもある。

自分でやってみるということは、自分の可能性と過剰な期待を廃して、自分の実態を知ることである。どこまでも続くに見えた未来が潰えて手元に残るもの、こんなもんか。しかし、手元に残ったものを直視できないうちには、次のステージに行くことはない。自分は天才であるという理想を痛々しくともその身から引き剥がし、今ここからスタートすること。それができた人間だけに、きっと次はある。いや、それしかないと私は知っている。未完の天才に未来はないが、自分の能力を認めた凡才にはやりようがある。天才には届かなくても、我々には我々のやり方がある。

巷に溢れている作家の創作秘話なんて、間に受けてはいけない。「たまたま書いたものが選ばれちゃいました」「もとから書くのは得意なので、苦労はしませんでした」「空から降ってきたんです」。それは、のちに成功して自分の作品を振り返る余裕ができたときに「発見」されたものだ。本当に書いていたときにそうだったとは限らない。血の滲むような修正を繰り返し、ヘトヘトになりながら取材し、悩みに悩んでたどり着いていることの方が多い。「天性の才能」と称される人間が、どれだけ苦労しているかなんて、本当のところは本人以外知るよしもない。

だから、未完の天才でいるな。自分もいつかやればできるなんていう安定した場所を捨てよ。評価を恐れるな。怖がるな。挑戦する凡才であれ。挑戦する凡才にだけは、次がある。

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