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大人になっても無邪気という才能

映画は、観客にストーリーを伝えるためシーンを用意する。シーンを作るため一つ一つショットが撮られる。ショットのため、構図や小道具が考えられ、そして役者が演じる。

しかし、ストーリーを伝えるよりも「こういうショットが撮りたい!」という思いが先行してしまう映画監督がいる。

個人的に大好きな映画監督の一人、ブライアン・デ・パルマである。

ブライアン・デ・パルマの魅力

ブライアン・デ・パルマは、スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスと同世代の監督で、また彼らと同様、大学で映画を学んだフィルムスクール出身の監督である。

しかし、スピルバーグやルーカスのような大ヒット作はなく、知名度的にもイマイチなのは、彼の作風や安定感のなさからくるものと思われる。

作風

デ・パルマ作品の特徴は、エロ、グロ、覗きである。スピルバーグやルーカスのように大衆受けするファンタジーや冒険物語とは程遠い。

自分の奥さんの下着姿を情熱的にエロく撮った『殺しのドレス』(1980年)をはじめ、彼の作品ではヌードシーンが多く、エロが主要な要素となる。また、子どもに見せたくないような惨殺シーンも多い。さらに、本人に覗き趣味があるのではないかという位に、覗きシチュエーションが多く登場する。

このように、自分が好きなことを盛り込んだだけ、とも言えるような作風であり、それを隠そうともしない無邪気さが大きな魅力となっている。

安定感のなさ

また、デ・パルマ作品は、作品によって絶賛されたり酷評されたりと評価の差が激しい。安定感がない。

自分が好きなことを描きたいという思いが先行しすぎて、それが暴走している時がある。その暴走がストーリーと上手く嚙み合っていれば絶賛され、あまりに暴走していると酷評される。やはり、無邪気なのである。

特に、自分が好きな映画の影響を受けて「こういうショットが撮りたい!」という思いが先行し過ぎている時がある。

例えば、『ボディ・ダブル』(1984年)はその典型で、ストーリーからして無理矢理なショットが多発する。特に「ヒッチコックみたいなショットが撮りたいんだ!」というデ・パルマ監督の声が聞こえてきそうなくらい、彼が敬愛するヒッチコック作品へのオマージュ感たっぷり(もしくはパクリ)ショットが連発する。ストーリーとは無関係に無理矢理詰め込んでいるため「なぜここでヒッチコック?」と首をかしげること多数になる。

そのため『ボディ・ダブル』は批評家からは酷評、公開当時観客からも失笑を買ったらしいが、しかし『ボディ・ダブル』は、デ・パルマ監督の暴走っぷりが楽しめ、個人的には好きな作品の一つである。

映画愛に溢れた作品

このように、デ・パルマ監督は映画愛に溢れた無邪気で愛すべき監督なのである。

しかし『アンタッチャブル』(1987年)がヒットして以降、メジャー監督となり作風が大人しくなってしまった。無邪気さが影を潜め、上手にまとめるようになってしまった。『ミッション:インポッシブル』(1996年)なんて大衆受けが要求される作品を撮らなくてよかったのにと思ってしまう。それらも優れた作品と思うが、デ・パルマ監督らしくない。

やはりデ・パルマ作品は、映画愛が暴走している初期~中期に魅力が詰まっている。

そして、その映画愛への暴走とストーリーが奇跡的に噛み合っているのが初期作『キャリー』(1976年)だと思っている。

青春映画の傑作『キャリー』

『キャリー』は一般的にはホラー映画とされるが、(怖さへの耐性は個人差があると思うが)全く怖くない。お化けも妖怪もモンスターも登場せず、ラストシーンでようやくホラー映画らしい描写があるくらいである。

そのため、『キャリー』はホラー映画ではなく、女子高生キャリーを主人公とした青春映画であり青春映画の傑作と思っている。

キャリーは内気な性格で、学校ではいじめられ、家では厳格な母親から抑圧される生活を送っている。それが、初潮を期に超能力を身に着け、最初は戸惑いながら、生徒や教師、母親へ復讐を果たす物語となる。

人は子どもから大人になるにつれて、体や自我に変化が生じる。その変化に戸惑いを感じる。つまり、キャリーが初潮を機に身につける超能力は「大人になること」そのものを象徴していると考えられる。そして『キャリー』は、子どもから大人へ成長するキャリーの、それまで抑圧されていた自我の芽生えを見事に描いた青春映画なのである。

また、特筆すべきは、最初から最後まで凝りに凝った映像世界を見せてくれる点にある。デ・パルマ監督の「あんなショットを撮ってみたい」「こんなショットも撮りたい」という気持ちを具現化したように、映像テクニックのオンパレードである。

それらに無理矢理感はなく、奇跡的に全てがストーリーとマッチしており、またシシー・スペイセクの凄まじい演技もあって、キャリーが受ける抑圧、幸福、絶望、解放といった心象が見事に描かれている。

撮影技法や編集技法に興味がある人は、『キャリー』を見るのがわかりやすい。そういった技法は「わかる人にはわかる」という感じでさりげなく用いるのがかっこいいわけだが、無邪気なデ・パルマ監督の場合、それら技法を包み隠そうとしない。「こんなシーンも撮ったから見て!」というデ・パルマ監督の声が聞こえてきそうなシーンが多数である。

冒頭のバレーボールシーンの俯瞰視点。前半、教室シーンでのクラスの人気者男子・トミーとキャリーを捉えたパンフォーカス。中盤、トミーがプロム用衣装の着替えを行う際のコマ落とし。プロムでトミーとキャリーがダンスするシーンの回転トラッキング。そして、クライマックスのスプリットスクリーン。これら以外にも映像テクニックがてんこ盛りで、最初から最後まで凝りに凝った映像世界なのである。

無邪気さの魅力

『キャリー』をはじめ、初期~中期のデ・パルマ作品から感じるのは無邪気さであり、映画愛である。

大人になるにつれて、無邪気さというのは忘れていくようになる。ディズニーランドに行っても、子どもの頃のように無邪気に楽しむということが難しくなり「あの乗り物は時速どれくらいなのかな」とか「角度はどれくらいだろう」と、どうでもいいことが気になってしまう。

初期~中期のデ・パルマ作品のように、大人になっても無邪気さを失わないことは才能だと思う。しかし残念なことに、後期作品ではヒット作を作るという要求に応えるあまり、無邪気さが失われていった。

まだまだ現役のデ・パルマ監督。今一度、初期の頃の無邪気さを取り戻し、映画への愛が暴走している作品を撮ってほしいと願うのである。

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