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岩井俊二を知らない若者たち

若い社員と会話していたら、「ヒップホップってどんな音楽ですか?」という話になった。

ヒップホップといえば若者が聴く音楽という意識があり、そのため、若者がヒップホップを知らないということに驚いた。

筆者自身は若い頃、ヒップホップを好んで聴いていたわけではないが、テレビや街中でヒップホップらしい音楽がかかっていた。そのため、ヒップホップがどういうものかは何となくわかる。

そこで先程の若手社員に、「”おはよう”を、”おはYO!”というのがヒップホップだ」と言ったら、「なるほど」と納得されてしまった。

彼は普段から音楽を聴かないらしく、音楽のジャンルもよくわからないと言っていた。そのため、ヒップホップを知らない彼は、珍しい若者なのかもしれない。

この会話でふと思い出したのは、今の若者は岩井俊二を知らないという記事のことだった。

若者にとって岩井俊二は知らない作家

『リップヴァンウィンクルの花嫁』(2016年)公開時の以下の記事である。

あの時期に一世を風靡した作家が、現代の若者にとっては、知らない作家になっている。今では、芸術っぽい、カルトっぽい、高尚な映画監督、と思われているかもしれません。あんなにメジャーだったのに…… 歴史というのは、こういうものなのかと、30を超えて思い知りました(笑)

「岩井俊二はもはや若者に見られていない?」記事から引用

この記事を最初読んだ時、「えっ?」という感覚があった。

岩井俊二といえば、90年代日本映画界のスター監督であり、若者を中心に圧倒的な支持を得ていた。「映画監督」でなく「映像作家」という言葉が似合う存在だった。『スワロウテイル』(1996年)は、当時、若者に属している人であれば観ていて当然といった作品だった。記事内でも書かれているが、レンタルビデオ店に行けば、岩井俊二コーナーは必ずあった。

記事を読んで、岩井俊二を知らないのだから、80年代のスター監督大林宣彦も知らないのだろうな、と思った。

今の若者は、大林宣彦も岩井俊二も知らない。そうか、そうなのか、と思った。

時は移ろい、流行も価値観も変わっていく。意識していないと、変わっていく時代そのものにも気づかなくなる。そのことを痛烈に感じた。

女子高生はLINEを使わない

似たような経験として、2、3年前、女子高生のグループインタビュー結果を見ていた時、衝撃に近い感覚を持ったことがある。

グループインタビューで女子高生が使っているアプリについて質問が及んだ際、全員が、メッセージアプリとしてLINEは使わないと答えていた。

「えっ?」

と、思った。

LINEは堅苦しい。LINEはお母さんとのやり取りでしか使わない。友達とはインスタでやり取りする。

ということだった。

LINEですら女子高生にとってはおじさん、おばさんが使う物。なんと時代の変化は速いものなのか。

同時に、インタビューに参加した女子高生全員が、マクドナルドのアプリをスマホに入れていた。それを見て「今も高校生の主食はマクドナルドだったか」と安堵を覚える自分は、すっかり完全無欠のおじさんなんだなと感じていた。

時代の変化に強い作品

仕事柄、毎日のように「Z世代」というキーワードを聞くし、今の時代を知るための調査データやアンケートデータを目にする。

「今」を追いかけ、知ろうとするのは、実務上必要なことであり、それ自体をどうこう思わないが、しかしその「今」もまた、一時のことなのだなという感覚を抱く。

「今」という時間幅もどんどん狭くなっており、今日の流行は明日どうなっているかわからない。

映画にしても小説にしても、「今」におもねった作品というのは、今その作品が魅力的であっても、やはり、明日にはどうなっているかわからない。

しかし、長い間、愛され続ける作品というのもある。

時代がどう変わろうと愛され続ける作品、それら時代の変化に強い作品は、人の本質的な部分を描く、もしくは、人の本質的な何かに訴えかけているのだろうなと感じる。

「今」を追いかけることも必要である。しかし、映画や小説という創作物であっても、商品やサービスであっても、人の本質に訴えかける何かを追い求めることを忘れてはならないと感じる。

人の本質的な感動や欲望。「今」を追いかけていると、変化のスピードが速い現代だとなおさら、そればかりに必死になって、忘れてしまいがちになる。

しかし、「今」によって描かれるのは、本質が着飾る衣装であり、描くべきなのは、作るべきなのは、人の本質。そのことを、やはり、忘れるべきではない。それが、時代の変化に強い物を作ることにつながるはずである。

時代を超えて、高校生の主食となっているマクドナルドのように。

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