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つまらないから価値がある

映画観賞は、どの作品を観るか選択する時から始まっている。

タイトルや見出し、概要、また、評価や口コミを見て、この作品を観ようと決める。期待通り満足できる作品であればよいが、なかなか完璧に満足できる作品に出会うことは少ない。

映画観賞は、人生における貴重な2時間前後の時間を使う。そのため、映画観賞は、ギャンブル的要素がある。

つまらない、退屈、期待ハズレ、駄作。このような感想を抱く作品に出会うと、時間の無駄使いと感じるかもしれない。しかし、必ずしもそうとは限らない。

駄作界の『市民ケーン』

駄作界の『市民ケーン』と呼ばれる作品がある。『ザ・ルーム』(2003年)という作品だ。

繊細な銀行員(風貌からそのようには見えないが)と婚約者を中心とした群像劇である。ストーリーは極めてシンプルである。

一見、作りはしっかりしている。例えば、史上最低の映画監督と呼ばれるエド・ウッドの『プラン9・フロム・アウタースペース』のような、段ボール製のペラペラの墓石をはじめたとした学芸会のようなセットでないし、21世紀のエド・ウッドとも呼ばれるマーク・ポロニアの『フランケンジョーズ』のようなコテコテの合成映像が登場するわけでもない。

しかし、『ザ・ルーム』は駄作と呼ばれるにふさわしい。それは、映画的でないからだ。なぜ映画的でないかというと、カットの整合性を欠いているからだ。ストーリーとは全く関係ないシーンが続出するのである。

カットの無茶苦茶ぶりがわかりやすいのが、中盤、突然、主人公と友人たちがタキシードを着て登場するシーンである。彼らは、外に出てアメフトのキャッチボールに興じる。しかし、なぜタキシードを着ながらアメフトをしているのか、それがどんな意味があるのか、全く描かれない。このシーンの後も、一切タキシードについてもアメフトについても触れられない。理解不能である。

”いい雰囲気”のBGMがかかる中、無駄に長いラブシーンが頻発したり、役者たちの棒読み&棒立ち演技など、駄作とされる理由は多くあるが、この作品の特殊さは、このカットの不整合さにある。

この理解不能な作品は、その特殊性でファンを生み、現在はカルト的位置づけの作品になっている。

しかし、この作品を映画的でないところでツッコミ、「つまんねー」とか「くだらねー」という言葉でゲラゲラ笑いながら観賞するのは、正しくない。

批判するのと、馬鹿にして嘲るのとは違う。誰かの創作物に対して、それをただ嘲笑の対象にするのは卑劣な行為だ。どんな作品でも、作り手は情熱と困難をもって作っている。そのことに対して、リスペクトを持って観賞するべきである。その上で、「つまらない」と批判するのはよい。

『ザ・ルーム』は、つまらない。駄作と呼ばれるのもわかる。しかし、『ザ・ルーム』はつまらない、という感想だけで終えるべきでもない。

『ザ・ルーム』を観て、感じることがある。

カットの整合性とは何か

普段、映画を観ていると、当然のように整合性のあるカットがつながれる。今映るそのシーンは、映画内において、以前のシーンとつながりあったり、後に意味を持つシーンだったりする。一見、意味のないカットであっても、それが後に伏線になっていたりする。

それが当然であり、そのこと自体特別意識することは少ないが、逆に、不整合なカットが続くこの作品を観ると、カットの整合性の重要性を改めて理解することができる。

他者に伝えるとはどういうことか

なぜ整合性のあるカットをつなげるのかといえば、それは、観客にストーリーを伝えるために必要だからだ。

他者との会話においても、話の流れと全く関係ない話を唐突にされれば、クエスションマークが頭に並ぶ。真面目なビジネスの話をしている時に、突然、「自分はアメフトが好きで、昨日、友人たちとアメフトしたんですよね」と言われたら、普通、何かビジネスに関連する例え話なのかと考える。しかしそれが、全く関係ない話だとしたら、あのアメフト話は何だったのだろうとなる。

もしもアメフトについて話したければ、ビジネス会話の途中でするべきではないし、ビジネス会話をしたければ、その時、アメフトの話をするべきでもない。伝えるという作業において重要なのは、話の流れがある。『ザ・ルーム』を観ると、そのことを考えさせられる。

映画的とはどういうことか

『ザ・ルーム』は映画的でない。それは、不整合なカットによって、他者に伝える上で必要な話の流れを断ち切っているからだ。

この映画的でない『ザ・ルーム』を観ることで、映画として必要な要素、他者に何かを伝えること、そして、そのために整合性あるカットということを意識させられる。それはつまり、映画的とはどういうことかを考えさせられることにつながる。

つまらないをボジティブに

自分の好きな物だけを選り好んで摂取するのは、その人の感性を鈍らせる。

ニュースアプリのGunosyが登場した当初、同僚が発した印象的な言葉がある。

「Gunosy使ってると、自分が好きな記事しか出てこなくて。だから、世の中で何起きてるかわからなくなっちゃうんですよね」

映画においても同じことが言える。マーベル作品のような、安定して楽しめる作品だけを観るのは、その人の視野を狭めるし、人間としての質が上がることもない。あえてつまらない映画を観る勇気を持つことも重要である。

難解な映画、退屈な映画、B級やZ級と呼ばれる映画、普段観ないジャンルの映画、それらを観る。予想通りつまらないかもしれない。しかし、「つまらない」という感想で終えず、なぜつまらなかったのか、自身が感じたその理由を深く考えることで、つまらない体験が価値となる。新たな発見があるかもしれないし、少なくとも「つまらない」という経験値を手に入れ、視野を広げてくれる。

最初に、映画観賞はギャンブル的だと書いたが、それは実は、映画観賞の一次的な事象にすぎない。

つまらないと感じたことに対して、つまらないと感じた自身の認識に向き合うことで、新たな価値を生み出す。つまらないは、ネガティブではないのである。

そういう意味で、映画観賞は、リターン率が極めて高い投資といえる。

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