怪文書(2023/03/03)

 少しでも長い間、誰かを深く愛していたい。それ以外に私がこの人生ですべきことなんて、どこにも一つも見当たらない。

 家族に対する愛情とはまた違う。盲目的な愛こそ私は求めている。一般には愚行と評されるが、私は敢えてそれを求めている。

 私はもうこの世界に疲れてしまった。現実を理想に近付ける可能性には期待できない。同じことが続いていくばかりで、進歩は常に限定的だ。

 進歩の先に待っているのは、一に退屈、二に消滅だ。こんなに悲しい未来が待ち構えているのだ。動機はどこかに行ってしまった。

 そもそも、現実的な問題に対処する能力が、私にどれだけ備わっているというのか。私にできることは、精々事務処理仕事くらいだろう。

 社会との繋がり、人類愛を基礎にして、社会の改善に参画したいと思う気持ちも以前にはあった。残念ながら、人間社会はこの有り様だ。

 たしかに、美しい心を持った人間もいるし、社会における相互扶助など、全てが醜いばかりではない。そんなことは分かっているんだ。

 それでも、人々の看過できない醜態を目に耳にする度に、関心は薄れていく。どうでもいい。もう勝手にやっていてくれ。私はここでコーヒーを飲むから。

 そう思っても、私は考えるのをやめられない。倫理に悖る人間を、批判するのをやめられない。義憤に駆られ、好戦的な性格が剥き出しになる。

 それが私の性格なので、好きとか嫌いとか感じても、一向に何も変わらない。だから私は、もっと他のことに目を向けるべきなのだ。

 目どころではない。心まで向けなければ、熱中して、真の情熱を注がなければ、そうしなければ、私はここから逃げ出せないのだ。

 そこで私は、一つの解決策として、一人の人を深く愛することにした。そうすることで、他のことを考えるのをやめ、忘れるのだ。

 とはいえ、恐らく一人の人を深く愛することによって、その関係する人々、引いては社会、将来についてまで私は興味を抱くことになるだろう。

 しかしその興味は現実的な範囲に留められ、今のように宇宙的な、無限的な、空想的な、非現実的な節操のない思考からは距離を置くはずだ。

 本当は、ただ一人の人だけを知りたいが、その人を愛するためにも、その周辺に気を配らずにはいられない。集中にも限界はある。

 とにかく、人が絶望に苛まれず生きるために必要なものは情熱であり、その情熱は人によって異なる。そして私が情熱を捧げられるのは、人だ。

 ただの人ではない。美しい人だ。容姿に見蕩れ、精神に惹かれ、自らの全生涯をその人に捧げることも厭わない。そう思えるような人だ。

 外見に拘るのも、心に拘るのも、それは私の脳が命じていることだから、仕方がないのだ。私はもう諦めている。美しいものが美しいのだ。

 しかし、ここで一つ問題が生じる。いや、一つどころではない。いくつも問題が生じている!私はどうすればいいんだ!

 まず第一に、私が異性にとって魅力的な存在ではないことだ。顔も姿勢も性格も歪んでおり、これらの矯正には難がある。やばい。

 次に、私の理想が高く、第一の理由と相まって、市場原理的に交際や結婚が成立しない可能性が恐ろしく高いのだ。終わっている。

 そして、可能性が低いなら試行回数を増やせばいいじゃないと諸兄は考えるかもしれないが、私にはそれが難しいのだ。

 何故ならば、私は人を愛する際に、加減ができない。更に、他人を利用するようで、倫理的にも良心がNOを出してしまう。もう無理だ。

 ということで、もし諸兄のお知り合いに素敵な女性がいたら、是非とも私に紹介してください。今回はこれが言いたかっただけです。よろしく。

 はぁ…。将来が暗いよ…。孤独を忘れたいよ…。鬱になって、余計に他人に煙たがられて、更に鬱になるみたいな、この先そんな哀しい人生を歩むのだろうか。この人生、色んな角度から条件が悪いよ。良い条件もあるんだろうけど、悪い条件が多いように思えるよ。明るい人間にならないと嫌われてしまうのにね。なんでこんな…。ああ、無常。無情になれたなら、快楽を手に入れるなんて造作もないが、多分これだけ苦悶している私にしか手に入らない幸福があるのだろうと思って、今を慰めるだけ。ん?自分にしか手に入らない幸福があるからといって、そこにどんな価値があるというんだ!あれ、そもそも私は価値を求めているのか…?てか価値ってなんだっけ…。価値…価値創造…創価…創価?創価学会!?池田大作先生!?ファーwww全然分からん。もう寝る。さようなら。南無妙法蓮華経。こんな日記読むなよ。バカが。あと二度と宗教バカにすんなよな。おじさんとの約束…おじさんだと!?お兄さんだろ!?あと二ヶ月でアラサーになるのつらい。

P.S.
エル・カンターレに花束を。

 

 

 


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