衣服ってなんだろう。これから。
昨日は撮影のための事前フィッティングでした。
モデルさんもカメラマンさんもプロの方ではなく、たまたま居合わせた人たちと一緒にトライしてみたら、私の脳内イメージをみなさんが見事に具現化してくださったので、
「ギャーー!これ!これですーー!」
と盛り上がってしまい、「やってきた波には一気に乗るべし!」とばかりにみんなで勢いでそのまま撮影を続行したという、
本当になんというか、必然でしかない偶然の連なりで物作りをしています。
こちらの写真は、
無農薬の薔薇と紫根で染めたヘンプ×オーガニックコットンの天竺で作ったキャミソール、リラックスパンツ、そしてドレープジャケット。
赤の花と紫の根の色を合わせていきました。
陰陽が再合一していくような、性別を超えた美しさのような、そんな世界のための衣服をとイメージして作った服たちです。
ラウラミーカって始まりからずっと、偶然の、その場の出会いだけで総てが動いているのですが、全方位ゼロの状態で始めたわけなんだから、偶然に身を任せて動くより他ないのは、あたりまえなのかもしれません。
冷静になってみれば、アパレルの世界にいたこともないのに、知り合いすらいないのに、よくやってきたなぁと、おバカというか、どこか愚かというのか、思考回路2本か3本断線してないとできないことだよな‥とよく思います。
でも、だからといって、やみくもに物作りをしているのではなくて、衣服や下着を通して目指したい世界は見えてます。
向かう島の方角は分かっている。そして、私がその島を目指すのは生まれてくる前に描いた青写真通り。だから大丈夫だ、という確信があります。
とはいえそれは、まるで大海原のはるか向こうに見える微かな点でしかなく、それ故になかなか説明が難しい。だからこそ、技術よりも何よりも、“その微かな点のような島”を、言葉を超えて感知してくれる人との作業が大事なのです。
「あそこ!あそこに島がある!」と言った時に、
「え、全然わかんない」なのか、
「わかんないけど、指示してくれれば漕ぎますけど」なのか、
「ああ、なんとなくわかる」なのか、
「私もまさに同じタイミングで見つけてた!行こう!」なのか、
互いの呼応度次第で、おそらくきっと写真から伝わる力、衣服から伝わるエネルギーが全く変わってくる。
言葉を遥かに凌駕した感覚の共有があると、脳内のシナプスというシナプスが一気に繋がり、大きな波にみんなで乗っていける。これは最上の歓喜と思いますし、制作時の底抜けの歓喜がその場や物を巻き込んで全体を包み込むからこそ、良い製品が生まれるんじゃなかろうか。だから、
その製品に歓喜が込められているか。
結局そこが大切なのかもしれないな、と最近そう感じるようになりました。
製品としての生産背景の健やかさや素材の良さ、製品をお届けする際の社会的礼節、それらは必須の、基本中の基本で、
その上で大切なのは、作り手サイドに歓喜があるかどうか、なのではないだろうかな。。。
そんな思いを先日友人に話した時、「具体的にどんな効果が生まれると思う?」と聞かれたのですが、ああ、さすが友よ。応えられない魔球ぶっこんできましたね、とその時は投げ返すことができず、
最近はその問いばかりを考えていました。
その歓喜は衣服にどのような効果があって、具体的にどんな力をお客様に届けられるのか。
それはつまり、「あなたにとって、衣服とはなんなのか。」ということになるだろうと思います。
イメージはできるのだけど、語彙が乏しいことも手伝ってなかなか言語で示すことは難しい、荒削りのまま言葉にすると「グイッとしたままグワーンと加速度つけてキラキラし始める」みたいな擬態語の集積のみになってしまう、けれども頑張ってそこを更に言語化してnoteに残したいなと考えながら日々過ごしていたら、今日イメージがより明確になった感覚があったので、完璧ではないけど、言葉にしてみようと思います。
ラウラミーカが考えるこれからの衣服とは、
衣服が必要な世界を丸抱えにしたまま、衣服が必要ではない世界への入り口を突破していく力を与えてくれるもの。
であろうかと思います。
ちょっとあまりに抽象的ですね。ああ、、、文豪ならば何と言うのだろうか。
そうですね‥‥
まず、今此処にある現象界は大切だという前提が私にはあります。現実と呼ばれている世界に楔(くさび)を打ち込んで、肉体を使ってガッツリ生きる力。それがとても大事だと思っているし、そこをおざなりにしたら、進みたい道からどんどん外れていくような気がする。
でも、だからといって、現象界に埋没して生きていくのは違う。
目の前に物質的に広がる世界をしっかりとホールドして、丸抱えにして、次の世界へと突破していく時が来てるんじゃないだろうか。
そして、突破する私という存在を、あなたという存在を、たくさんのベクトルから支えて育むような力を、衣服は持っている気がします。
さらに言うならば、死や闇をも包み込む、人としての色香をも同時に衣服に込めたい。
生きるって、だって、そういうことだと思うから。
きっと、死や闇にこそある何かを感じたくて、私たちは生まれているのじゃないかと思うから。
だからそこをも丸抱えにして生きるような衣服を着たいし、作っていきたい、と思います。
もう、、、
なんというかな。
私、何もかも終わってくと感じていて。
きっとこの状況の中、そう感じていらっしゃる方が多くいらっしゃるのではないかと思うんだけど、
物質的、資本主義的なことはもちろん、既存の精神世界的、スピリチュアル、という言葉でくくらられるようなもの、
というか、この世界で、“括ることが可能なこと全て”が終わっていくように感じていて。
でも終わりは終い(しまい)ではなくて、連綿と続くシークエンスの中の現象でしかない。
そして終わりというものが見せる次への扉、次への連続の始まりは、終わりが近づけば近づくほどはっきり見えてくる。
衣服、下着は、第二の脳と言われる肌としっかり呼応し、互いに情報交換を行うことのできる強力なツールだと思います。
これから始まる新しい世界に、衣服が連れて行ってくれる、そんな思いでひとつひとつの工程を楽しみたいなと思っています。
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