大人になったと思う瞬間を教えてください

「パン屋再襲撃」を読んで、あまりの村上春樹らしさに笑いが絶えずこみあげている。村上春樹って昔はこんなにも村上春樹みが濃かったんだね!!

肉の焼ける甘い匂いが、まるで目には見えない微小な虫の群のように僕の体じゅうの毛穴からもぐりこみ、血液に混じって体の隅々を巡った。そして最終的には僕の体の中心に生じた飢えの空洞に集結し、そのピンク色の壁面にしっかりとしがみついた。

村上春樹『パン屋再襲撃』文春文庫

「肉が焼けるにおいをかいだらますますおなかがすいてきた」ってことをこんなにもしつこく描写できてすごいと思う。これを読んでも本を床に叩きつけたい気分にならないわたしも、大人になったなと思う。大人になったと思う瞬間を教えてくださいという質問には今後、これを答えることにしよう。

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文学や映画などの物語をわたしは必要としているのだが、好きな種類とあんまり好きじゃない種類のものがある。世相をリアルに反映しすぎていたり、剥き出しの問題意識を共有したりする類のものはあんまり好きじゃない。ただでさえ内向的で自罰的なのに、自分に身近すぎる題材だと、書かれているものから社会の構造の問題を見出したり自分に照らし合わせてヒリヒリしちゃうからいやなんです。だったらカラマーゾフ家のおかしな面々や箱男などを眺めて人間のダメさ加減などを味わうほうがよい。

映画「哀れなるものたち」を観てすごくおもしろかったと思った。極端で美しい物語。ベラが愛おしい。「彼女の成長にあそこまでセックス必要か?」「妊娠や病気のリスクをなかったもののように描いていいのか」といった言及を見ると戸惑ってしまう。ストーリーや設定にポリティカルコレクトネスを持ち出して瑕疵を指摘するべき種類の作品とはわたしには思えないんだ。現実から逸脱した極端な世界の、ちっぽけな生を追跡して見つめるからこそ描かれる何かを求めて、わたしたちは映画や文学に浸るのではないの? 盗んだバイクで走り出す15歳の繊細さを盗まれた者の気持ちになれと断罪して、虫になっちゃった変な息子にりんごを投げつけた父親を虐待と糾弾して、浮気性の全能の神をあんな女の敵は許せないと追放して、なんか意味あるんでしょうか。正しくないこともする人間(あるいは虫、あるいは神)のすがたを描いてはいけませんか?

こんなふうに友人にぶつぶつ文句を言ったら、現代は文学や映画にも、広く見られるからには啓発の責務が生じると考えられがちなんじゃないかという返答がかえってきた。まあな、プロパガンダ映画なども事例はいくつもある。だけどほんらいは啓発のつとめなどはなくて、特に文学なんかはレジスタンスくらいのものでしかないはずだということばのほうに、うむうむ納得。わたしはレジスタンスとしての物語を愛そう。

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