フィリポ・ニュータウン〔ショートショート〕
ある朝、朝だと思う。正直なところそれ自体が確かでないような感覚の雨上がりの朝のことだ。だだっ広い駐車場。ここは大型ショッピングモールかどこかの工場の駐車場のようなところだろう。車止めの白線が規則正しく並んで見えるのは、わたし以外の車が無いからだ。
そこまで自分で車を運転してきた記憶はあるのだ。いつものように部屋を出て、いつも通り車のキーがポケットに入っているからそれで車に乗って走り出した。地面が薄っすらと濡れて色が変わっていたから夜は雨が降ったのだなと、それから多少は涼しいかなと思ったことを覚えている。その後はいつもと何も変わらない景色の道を通り、そして今に至る。でも妙なことにそれ以降、なにも進まないのだ。わたしの周りのすべてのことが何も進まないのだ。止まっているのではなく進まない。わたしは駐車場に停車し、車の中でただ座っている。
たまに駐車場の出入り口付近を除いてみるのだが、特に変わった様子はない。新しい車が来ることも、誰かの車が出ていくことも無い駐車場にわたしはいる。そればかりか雨が降りそうで降らない空も、永遠に思える。植えられている樹木に見覚えはあるのだがそれが揺れる様子はどこか奇妙で、どうしても風で揺れているという感じがしないのだ。それはなにか決まりにしたがって規則的に動いているにすぎないのではないか、そんなふうに見つめていると、その動きさえも次第に小さくなり動かなくなるようだった。
試しにわたしはカーラジオをつけてみることにした。すると、呆気なく電源が入り、そして男性パーソナリティーの陽気な声があたりに響いた。
「ヤァヤァ、今日もゴキゲンな朝だね。それでは始めようか——。」
そんな風に軽快に話す彼の声は、「何を疑う。いつもの朝じゃないか」といった具合に語りかける。
はて、彼の名前は何だっただろう?
そう思うほどに彼の声には親しみがあり、昔好きだったヒーローのように懐かしい気持ちになった。それからそのヒーローの変身前の名前が思い出せないときのようにじれったい気持ちになった。
たしか……ㇽ、ろ、ロビンッ。そう、ロビンだ。
「——さぁ、今日もロビンがお送りするよ。まずは一曲」
わたしが思い出した瞬間に割り込むようにラジオが響いた。それから知らない陽気な音楽が流れると、わたしはまた懐かしい気持ちになっていた。それと不思議とこうも思った。ロビンが選ぶ曲はいつも陽気なんだよなと。
どうしてわたしは此処にいるのだろう。それからどうしてわたしだけしか居ないのだろう。日曜日に間違えて登校した学生のように、何かの勘違いをわたしだけがしてしまっているのだろうか。わからない。まったくもってわからなかった。だがそれから暫くして、わたしは正直な気持ちを自分に問いかけることにした。怖かった。でももう仕方がなかった。そうするしか他にないように思えたからだ。
わたしはここが何処なのか分からないのだ。
いままでは何となく、そのことから目を逸らしていた。心地のいい静けさや沸きあがってくるような懐かしさに身を寄せて居たかったのだ。そうやって漂っていれば自然と都合のいい答えが見つかり、すべてが解決するように思っていた。でもそうではないらしい。
ここは知っているような気のする知らない場所。そんなところにわたしは来てしまっていたのだった。
しかし幸いと言っては何だが、怖さの向こう側に焦りの気持ちがやってくることはなかった。そればかりか、わたしはこの場所に興味を持ちはじめていた。とりあえずいま分かっているのは、ここが”進まない場所”ということ。それから、わたしの思考は”進む”ということだ。いくら辺りの様子が何も変わらず世界中の時計の針が凍り付いたように思えても、わたしの思考はこうしていまも自由に巡っている。実に面白い。そんな風に思えるのはラジオパーソナリティーのロビンの選曲が陽気だからかもしれない。
ラジオはまだ何か言っている。
「知りたいことがあったらジャンジャン連絡してくれよな。それではお相手はロビンでした。バイバイ」
そう言って、ラジオは勝手にぷつりときれてしまった。
すこしの間、静かな時間がやってきた。この世界には砂利の一粒でも動かす者はいないのかというくらいに。そんなところに人間はいられないと聞いたことがある。あまりにも静かな所で気が狂ってしまうらしい。本当かウソかはわからない。だって、たとえ本当に気が狂った人がいてもその人にインタビューしてみても信憑性がないだろうから。
わたしはいま、どうなのだろう。正常なのだろうか。でももし狂っていたとしても、この世界のわたし一人ならそれが正常なのではないだろうか。だとしたら、たぶん、わたしは正常だ。
——ッ。
どこかでわたしを呼ぶ声がしたような気がした。わたしは息をひそめて静寂を纏った。答える気はない。わたしはまだ正常だから。
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