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フィリポ・ニュータウン ➁〔ショートショート〕

 「フィリポ」というのは「馬を愛する人」という意味があったはずだと思い出したのは、この“何も進まない場所”に名前でもつけようかと考えている最中のことだった。

 小さいときに通っていた幼稚園はそういったことを教えてくれる先生がいた。教会が併設されていてそこで異国の物語を聞いていた。物語は退屈だった。けれどそこに出てくる馬には興味があり、馬について想像するのが好きになった。そして馬の中には額に角の生えた馬がいることも知った。ユニコーンだ。そのときイメージしたのは白い馬で、たてがみは更に白くて少し濡れている姿だった。おデコに角があるなんてぶつかったりして邪魔じゃないのかなとも思った。
「ユニコーンは特別なのよ」と、先生は言った。「もし会うことができたならばそれは特別なことだ」とも。
 わたしが「先生は会ったことがあるの?」と聞くと、「いいえ」と首を横に振った。本で見ただけだと。
 それからわたしは家族で出かけるたびに、馬に会いたいとせがんだ。出来るだけたくさんの馬に会えば、そのうちにユニコーンにも会えるだろうという単純な算段だったように思う。

 はじめて会ったのは、『ウェルシュマウンテンポニー』。
 祖父がわたしを連れて行ってくれた牧場のふれあいコーナーの説明書きには、そう書いてあった。わたしが初めて見た本物の馬だ。馬の話をしてくれた先生の顔と名前は忘れてしまったが、この日の興奮を今でも忘れない。そして当然、幼いわたしは夢中になった。
 大きなその姿に驚いた。それまでイメージはたくさんしていたものの実物の大きさと力強い重量感に圧倒される。その匂いと目の前で感じる命の温度は、小さなわたしの体温を上昇させた。はじめて意識した命だったかもしれない。あって当然と思っていた世界の中にあった神秘だった。
「やあ」と、心の中で声をかける。
 それは二人だけの会話だった。周りの大人たちは何やら笑いながら言っている。それはすぐに近づかないわたしを臆病だと思っていたようだったが、どうでもよかった。わたしはもう一度、声をかける。心の中で。
「やあ、さわってもいい?」
 ——ウェルシュ。
 そう、わたしは彼をそう呼んでいた。
 周りの大人たちはその馬を「ポニー、ポニー」と呼んでいたけど同じには呼びたくなかった。臆病だと馬鹿にされた反抗心かどうだったかは憶えていない。説明書きのマウンテンの部分は「山」のことだと知っていたので、その前についているのが彼の名前なのだろうと思った気がする。だから、そんな理由でわたしは彼を「ウェルシュ」と呼んでいた。そう、心の中で。
 ウェルシュはわたしの問いかけに反応するように、こちらを見ていた。それからしばらく見つめ合い、側まで歩いてきて、わたしの前で止まった。
 背中に跨る。それから首を撫ぜた。
 ウェルシュは静かに動かなかった。こちらのようすを気にするようにただ暫くはその場に立っていた。これはわたしの思い込みかもしれないが、ウェルシュの背中に跨っていると守られているような、そんな気持ちになっていたのだ。それは最初だけでなく、そのあともずっと感じる気持ちだった。
 そしてわたしを乗せたまま歩き出すと、その背中からの景色に心が奮い立つようだった。地面を蹴る振動に緊張し、一生懸命に風を吸った。わたしはウェルシュに跨るたびに優越感を感じていた。それを思い出していた。

 わたしは”何も進まない場所”で車のシートを倒し、靴を脱いだ両足をハンドル脇に投げ出しながら考え事をしていた。この場所を「フィリポ・ニュータウン」と呼ぶことにしよう。それから何気なく、「馬ならいてもいいな」と、思った。そんなときだった。

 ――遠くから馬が歩いてくる。
 この誰もいなと思っていた駐車場の奥の方にその姿が見えた。
 それは白い馬。音のない世界に蹄がリズムを刻む。懐かしく、知っているリズム。こちらを見る瞳。包んで守るようなシルエットと心が奮い立つような勇気の温度をわたしの細胞がどこかに記憶していたから、それが彼だとすぐに思った。
 シートから体を起こし、靴に足を滑り込ませる。でも動きには細心の注意を払い、静かに車から外に出た。目は離さないように。瞬きするのも怖かった。緊張を飲み込むと喉が鳴った。わたしは車のドアに手をかけたまま、その場に立っている。
「やあ、ウェルシュ」と、心の中で言った。
 その姿はあの頃のままのようで、どこか歳を取ったようにも見えた。だからかもしれない。なぜか互いに近づいたりするのは馴れ馴れしいようで、駆け寄ったりせずにそのまま見つめ合っていた。彼が首を動かしたとき、たてがみの隙間から小さな角が見えた。
 ああ、そうか。と、わたしは思った。
 それから少しして、特別なことだったんだ、とも思った。
「ずっとここにいるから、キミも一緒にいてくれないか」と、わたしは心の中で言ってから、今度は声に出して「やあ」と言った。
 しかし、彼は興味を失ったようにそっぽを向いてどこかへ歩いて行ってしまった。でも悲しくはなかった。どこかいっただけで、どこかにはいる。
 ただ寂しかった。

 そのあと、わたしは別に退屈した訳ではなかったがこの場所を散歩してみることにした。たしかキャンディーが助手席の収納スペースにあったはずと思い出し探してみる。やはりあった。そこから小袋ふたつを取り出し、ポケットに入れて車を降りた。軽さとフィット感が気に入って履いているウォーキングシューズの感触がする。特に変わったことはない。
 ここはわたしの街だ。ここで暮らすのは簡単で、靴とキャンディーがふたつ、あとはユニコーンを信じる気持ちさえあれば大抵上手くいく。そう思うことにした。気分はわたし次第。特別なことがあるかもしれないし、無いかもしれない。だから、とりあえず空いた時間は散歩に行くんだ。
 カーラジオが鳴っている。
「ヤアヤア、ここは『フィリポ・ニュータウン』。ゴキゲンな街だ」
 今日もまた、パーソナリティーのロビンが陽気に何か言っている。

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