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「取り戻せない青春」とか思いつつ、美しい青春とか実はなかった

運動がてら見知らぬ駅から見知った駅へと歩く。

自分と同じ道を行く人が増えていく。「旅は道連れ世は...」あたりで、あっ向かう先に大学があるのだと気づいた。年寄は私だけ、みんな学生だった。

大学は箱根でたまに聞くT大だ。大学の内は突っ切れそうもないから、外周を歩いていく。気温はまだ暑いが、16時には日が落ち始め、オレンジの光が背中から当たり、正面に帽子を被った人の影を作る。

横を見ると柵の向こうにコンクリートで作られた少し古い建物があった。7階くらいはあるだろうか。いかにもたまり場になりそうな場所だ。すると防音でないドアを通り抜けるときの、少し曇ったような歌声が聞こえる。音系サークルがバンドの練習をしているようだ。

けしてうまくもない、そして若さだけははち切れんばかりのボーカルを聞くと青春だなと思う。もう取り戻せない青春だ。あのモラトリアムな時間も、バカバカしい話も、恥ずかしい失敗も、角砂糖のように苦い人生に溶けて、でも忘れた頃に甘さを思い出させる。

と、つい考えてしまったが、そもそもそんな「取り戻せない青春」とやらを味わったことはなかった。

音系サークルの知り合いはいたが、自分は同人誌サークルだったし、大学は奨学金を返すためバイトに明け暮れていた。サークルのたまり場から漏れるバンドサウンドは聞いた記憶はあるが、特に思い出とは結びつかない。それよりもバイトの帰り道、くたびれたメンタルに微かなやる気をくれたイヤホン越しのSUPERCARの方が思い出深い。

定型文としての「取り戻せない青春」。高校生や大学生のたわいのない日常を見ると浮かぶ、あのはかなく尊い感情、実はファクトがない人が多いんじゃないだろうか。もしくは漫画や映画といったフィクションと過去がない混ぜになり、美しくも嘘くさい、振り返るのに最適な「青春」ができているのではないか。

結局「取り戻せない青春」は一定数の人にとって過去ではなく、フィクション、幻想なのだろう。

大学をのぞくとガラス越しに見える食堂では女性4、男性2で何やら楽しげに話している。ベンチにはカップルらしき2人が同じ時間を大事に過ごしている。一人でいる人は見当たらない。

一人でいるような人はとっとと学校を去っているのだ。そういえば私もそうだった。「取り戻せない青春」は実際はないけれど「やり直したい過去」はあったみたいだ。

音系サークルのバンドサウンドはまだ漏れ聞こえている。その青春の匂いを実際に味わうことはもうできないから、せめてSpotifyで「LUCKY」を聴こう。

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