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愛着に流されず 生きてこれた人がいる。




「社会は愛着モードに支配されている」


現在、読み進めている本の一節です。

パッと思ったことがあります。


人の目を気にせず、自分の好きなことを続けられる人。

それは産まれた時点である程度決まっている、のではないか。


愛着モードとは、いわゆる他責思考。

「自分がこうなっているのは、(外部の何か)が悪い」

自分を愛する為の思考。

秩序モードとは、いわゆる自責思考。

「自分にもできることがあったはずだ」

自分を律するため、周りを愛し愛されるための思考。



私達は、なにかのコミュニティに対して”愛着センサー”をもっている。

自分の道を突き進むクリエイターは、それらを無視できていることが多い。

いや、無視という表現は正しくない。

そもそも”愛着センサー”をどこかに置いたまま忘れてしまった人がいる。


愛着センサー「社会や周囲から自分を守らなければならない!」その一点に反応する、いうなれば生きるための警報機。

人によって感度は違う。

ちょっとしたことでセンサーが反応し、過激な発言に繋がってしまう人もいれば、

ギリギリまで利他的であろうと、センサーをあえて鈍らせている人もいる。


しかし”愛着センサー”を置いてきたことで、原動力を阻むものがない、のびのびと生きていける人が、確かに存在する。

意志の力でもない。勉強のたまものでもない。

愛着センサーという警報機をきれいに取り外されていて、

どこまでも際限なく、健やかに伸びていく。


”愛着センサーと秩序センサー”を、意思決定のプロセスに組み込んでみた。

知覚
▶まず”もの”を見る。

動機
▶原初的な動機、純粋な『やってみたい!』という気持ち。

判断
▶この中にも多くのプロセスを踏む。
 愛着センサー
 ▶障害となりえるものに対して、自己また他者への保険掛けをする力。
 (これをやっていると周囲からどう見られるだろう?)
 ↓
 意志
 ▶本人に備わったやりたいことを続けようとする意思力、強靭さ。
 ↓
 記憶
 ▶過去の事例や学びの中から、解決策を探る力。
 ↓
 秩序センサー
 ▶様々な障害を認識した上で、問題の切り離しや意志の見直しを図る力。
 (こう見られたとしても、わたしは自分を律してやり通す。)

決断
▶判断プロセスの内容をもとに、最終決定を行う力。

行動



ではセンサーがそもそもない人間はどうなるか。


知覚


動機

決断

行動


こうなる。

そう。

こうなっている。

とても短い

プロセスがすっぽ抜けている。

処理は早く、行動にさけるリソースも多い。

活動的で意欲的で、ポジティブで伸びやかだ。

継続する意志も判断する意志も、気にならない。

もう判断プロセスがまるまるすっとばされているからだ。

やりたいから、やる。とてもまっすぐで、眩しいほど純粋だ。


では愛着センサーはどう取り外せるのだろうか。

残念ながら、後天的にはずせるものではない。

もって生まれたからには、なんとか警報機のしきい値をうまいこと調整するして、滅多にならなくするように。上手に共生していくしかない。

スポッと、警報機ごと外せるような近道は、今のところ私には見つけられない。


友人の中には「どうして、それを?!」と疑問に思うほど不思議な事を始める人がいる。

そういった人に、さっきのプロセスを遡って、話を聞いてみたりするのだ。

すると、途中のプロセスが存在しない人がいることに気づく。

”愛着センサー”は、最初からそこになかったのだ。

中には、元々センサーを持っていなかったが、生活のため、社会への適合のため、後天的にセンサーを身に付けざるを得ない人もいた。

ひとつ気付いたことは、愛着センサーをもってない人には、もっていない人なりの苦悩もあるのだと。

しかし、おそらくは、もっていないほうがある程度幸せであるということが分かった。

彼らは”愛着センサー”について、後から学ぶことができる。


少なくとも私は、この愛着センサーに阻まれて生きている。

なぜなら、生まれた時から、わけも分からず「愛着センサー」に振り回されて生きているからだ。学ぶ暇などなかった。

センサーは好き勝手にアラームをならす。

わたしには、どうしてなっているかも、その止め方も、さっぱりわからないままだった。


今は、センサーを強引にOFFにしたり、意志の力を使って行動にありつけている。

もしくはセンサーの上手な扱い方を学んだことで、丁寧に処理を施して行動にありつけている。

そして自らを律するルールを定め、得体のしれない後ろめたさと戦う。

多くの時間が、センサーの操作に費やされた。

その間に、いったいどれほどの「好きなコト」に時間をさけたのだろう。

すきなことに気がつくこともできなかった。それが私の後悔でもあり、しかし認めなければならない事実でもあります。


正直なところ、とても生きにくい。

自分でも面倒くさい人間だと辟易してしまうくらいには、生きにくい。

では、愛着センサーを持たずに、余計な思考プロセスが存在しなければ、わたしの人生はもっと好転したのだろうか。


しかし、考えても詮無き事だ。


愛着センサーを持って生きてしまっているのなら、そのセンサーと共に生きるしかない。

センサーがない人、にはなれない。

無理になろうとしなくても良い。

自分を愛する心を着る、それこそが愛着。

愛憎という言葉があるように、愛と憎しみは表裏一体。

時に愛着は自分に牙をむく。

しかし、あなたが、あなた自身をまもりたいから、今日もそのセンサーはけたたましく鳴り響いている。

そこに善悪はないのだと。

それを理解して過ごしていきたい今日このごろです。



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