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『箱男』とちょっとした気づき。

連載小説といいつつ、一話一話が長すぎることに定評のある猫暮…。

文章がぶくぶくと太っております!
ちょっとダイエットせんと…。

ところで、猫暮、小説のあいまあいまに雑多なメモのような文章を書いています。その中でちょっとした気づきがあったので、今回のはざま・・・の題材にと残してみる。

知らない世界を知る。切り開く。
いうて限界はある。
どれだけ調べたところで、相変わらず99.999999999999999…%に対しては無知のままだ。ゴールがない。どこまでも「極限」の世界で生きているのだ。

知識マウンティングや学歴コンプレックスに非常に関わりのあるトピック。
いくら教養や賢さがあったとしても、俯瞰してしまえばどれも微々たる差、って構造があるにも関わらず、どうしても劣等感や優越感に身を浸ってしまうのが人間。

なんというかね~…そういった差を意識せずに生きていたいのだけれど、やっぱり人は神様や仏様にはなれない。でも事実として、団栗の背比べで五十歩百歩で、みんな「か弱い人間」という共通事項で生きている。
その中で泥臭くもがく姿がかっこいいと感じることもあれば、もっと平穏に生きれる方法はないかと模索する時期もある。

社会に馴染もう…!
いや、時代はリベラル!
社会を捨てよう…!
教養!
文化を身に着けよう!
あれ、勉強が楽しい!
アカデミックに意味を見出そう!
学問のすすめ!
いや、アカデミックには意味がない。
時代は文藝か…?
歴史を掘り下げよう!
本を読もう!
なんでもいい。誰かの書いた文章を読もう!
ダメだ…結局、覚えたことを人に伝える能力がない。
いや、伝えたところで意味がない!
だって人間の99.999999999999999…%は無知の領域に包まれている。
そこで張り合ったって仕方がない。
自分のために生きよう。
好きなことを続けよう。
でも、好きな事をしてるだけじゃ生きていけない。
社会に馴染もう…!
(冒頭に戻ループ)

なんだか、こんな感じの思考をグルグルとめぐっている気がする。
輪廻の中を流されている。

ところで、最近、阿部公房さんの「箱男」を読んだ。

全国各地には、かなりの数の箱男が身をひそめている。
どうやら世間は箱男について、口をつぐんだままにしておくつもりらしい――。

ダンボール箱を頭からすっぽりとかぶり、都市を彷徨する箱男は、覗き窓から何を見つめるのだろう。一切の帰属を捨て去り、存在証明を放棄することで彼が求め、そして得たものは? 贋箱男との錯綜した関係、看護婦との絶望的な愛。輝かしいイメージの連鎖と目まぐるしく転換する場面(シーン)。
読者を幻惑する幾つものトリックを仕掛けながら記述されてゆく、実験的精神溢れる書下ろし長編。(解説・平岡篤頼)

たまたま阿部公房マニアに2人同時に出くわし、オススメ作品を問いただしたところ提示されたのが「箱男」
その日の内に読了。内容は複雑極まれりといった感じ。どうやら阿部公房作品の中でもかなり前衛的だと評判らしい。

たしかに難解ではあったけど、学びの多い構造をしていた。

直前に読んでいた小説が湊かなえさんの「母性」だったのだけれど、そこで取り沙汰されていたテーマが「信用のならない一人称」。そして「箱男」にもばっちりこのテーマがかかわっていたのが、意外な共通点。

ミステリーにおいて、思春期の不安定な子供や、精神疾患をもった主人公の一人称は特に注意深く観察する必要がある。

箱男も、完全な一人称、それも「書き残された日記」の内容が転写されているような小説。

その実、彼ら彼女らの記述したことがまったくの事実と異なっていても、読者がそれに気づくことができない構造になっている。

幻惑というのにふさわしい場面の転換には、多くの「嘘」が入り混じる。結局、誰が何をしたのか、イマイチつかみきれない文章をしているし、実際に妄言・妄想の類がこれでもかと混入する。

「箱の中」から外の世界を眺める主人公は、誰からも見られない。見られないことで、自身の平穏を守る特権階級につくのだという。しかし、世間的に「見れば」ホームレスや根無し草と同等の評価。しかし、「箱の中に入る」ということは「世間」という外の世界から離脱することでもあり、結果的に浮浪者たちと「箱男」はまったく別の存在だと主人公は定義していた。だって、世間的に「みられる」ことすらもなくなるから。

私自身、自分の精神性を守るために「みえないようにする」ことがある。SNSならミュートをしたり、そもそもアプリ自体を削除してしまうことだったり、時にはひきこもって社会の情勢からすっかり自分をシャットアウトしてしまうことも。

ときたま「みること」の暴力性を感じる。
たしかに、一方的に知っている状態というのは、時に人間を愉悦させてしまうし、無意識にその状態に溺れてしまう。

「溺れる者は藁をもつかむ」みたいなことわざがあるけれど、ちょっとこの意味を変形してやると途端に厄介な性質に変化する。

見ることに慣れると、もはや見ることをやめられない。それは実質溺れていると同じ状態。
そんな時「見る」と刻印された藁が、カンダタの糸みたいに上から吊り下げられたら、ほとんどの人が掴もうと躍起になる。

視界が広がると「見える」ものが増え、無意識の暴力性が刺激されていく。だからこそ「みられること」の持つパワーは、内側へ内側へドンドンと圧力を秘めていく。そんなものがぶつけられて、正気でいる方が難しいとも私は思う。

うーん。抽象的になってきた。私の悪い癖。人に伝わる言葉って難しい。


簡単にいってしまえば、「見える」って、とっても心地よい状態でもあるってこと。

逆に「見られすぎる」と、心が廃れてしまうはずだけど、「見る」ことで中和しているのかもね。

でも「見られて」しまえば、「認識されて」しまえば、人には攻撃する理由が生まれてしまう。

だから、どうにか自分をひた隠しにしつつ、自分だけ「見る」方法はないかと、『箱男』の主人公がたどり着いた結論が「箱男」、つまりお手製の段ボールの中に籠ることだったのではないかなぁと。


家に籠って知識に耽ることも、優しい世界の一つではある。もしも可能であるなら、周囲との差を「見ること」なく生きていきたいとは思う。

でも、実はそれって「箱男」と何も変わらないんだよね。「家」という「箱」が、まさに自分を守る防護壁になってくれている。構造的には一緒。防護癖でもあり、戦車みたいに攻撃性を両立する、まるで移動型の要塞みたい。

ふと思ったけれど、SNSって手段を手に入れちゃった人類にとって、もう「見られる」ことは当たり前なんだよね…。

「人類は常に暴力性にさらされることを享受した」って考えたら、人間の衝動性や暴動性が上手に分散できているなぁとも思うけれど、そのせいで心が壊れてしまう「箱男」「箱女」がたくさん生まれてしまうのもうなずけちゃう話で…。

うむむ、難儀な世界観。でも、実に興味深い!

どうにか「か弱い人間」である自分がへんなループに陥らずに過ごせる方法がないものか、今日も模索していくのでした🐈




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