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『短い文章恐怖症候群』のお話。


最近悩みがある。

いつからか短い文章が書けなくなっている。

私は「短い文章恐怖症候群」なのだ。



実のところ、原因ははっきりしている。


誤解されることが怖いから。

伝わらないことが怖いから。

それにつきる。

・・・

「もう無理だ」


とあるコミュニティで半ばパニックになった私は、ついそんな言葉を放ってしまったことがある。

「やめさせてほしい」


そうして懇願することしかできなかった。
その場に沈黙が漂った。刺すような視線を感じて、さらに居た堪れない気持ちになったし、一刻も早く逃げ出してトイレにかけこみたくなった。

幸いにも、その時のメンバーそれぞれと自分の状況や気持ちなどは共有できていたから、その沈黙を被害妄想的に解釈せずに済んだ。

だから沈黙が「私の存在を否定するような威圧感」を放っていたわけではないことを、十二分に理解していた。それでもやっぱり多少は堪えた。あの時間はきついね。できることなら二度と味わいたくない。

だけど、もしも。

その場にいたメンバーと満足なコミュニケーションを取れていなかったらどうだろう。
例えば日雇いバイトでたまたまその場に居合わせたような関係だったらどうだろうか。

「あぁ、こいつはこういうことをするやつなのね。日常的に」

そんなレッテルがアロンアルファで私の体に強力にこびりついてしまうだろう。時間をかけて外すことは容易じゃない。マイナスからのスタートが決定する。こんなにも恐ろしいことはない。

だから私は事細かに綴る。
伝えられることがまだないか、カバンを逆さにするみたいに脳みその中を全て床にぶちまける。そうしてハシゴに登って上から俯瞰する。まだ足りないか。まだ足りないか。足りない資料をなんとか見つけ出しては、さらにガリガリと綴って床に放って、もう一回。そんなようなことを繰り返している。

だが現実には、全ての物事に対してそんなことをしている時間はない。
割り切るところは割り切れ。要約しろ。時間がいくらあっても足りないぞ。


現代人はこのへんがとても上手だ。
「心を殺す」とか「無心になる」とか「うん、終わったら美味しいケーキ食べよう。認知療法~」などなど、状況別にこしらえたマインドセットが複数用意されていて、誰でも気軽に取り組める。


もちろん、万人が上手く出来るわけじゃないことは重々承知。
逆に、一般化してしまったからこそ「こんなことも出来ないの?」ハラスメントによる被害者が増えてしまう実情すらもある。

私はこのへんが、てんでダメだ。
誰かが損をしてしまったり、誤解を招くような行動をしてしまったが最後、あとは一生尻拭いの時間だ。

しかも前述したとおり、ひとつひとつの意思決定が非常に遅い。レッテルを剥がしてもらいたくても、気づけば終電間近だし、相手はとっくに帰宅して、翌日の準備に取り掛かっている。早い話、とんでもなく要領が悪いのだ。

貫通するダメージ

周囲の理解が得られる安心感の中で過ごしたり、自分のことを深く知ってくれている環境だけで、じゃあ自分らしくのびのびと生活していけるかと言われれば、そうじゃない。

女心は秋の空。
男心は秋の空。

前者は恋愛観の変化をたとえる。
後者は関心事の変化をたとえる。

人は一分一秒の間に、つぎつぎと変わっていく。
それが一日、一週間、一ヶ月たもつ保証はどこにもない。
今その時の最善の言葉を尽くしても、明日、明後日と、そのつど伝える準備をしておかなきゃいけない。

「やっぱり、君はだめだね」
「私はここでお別れだ。じゃあね。」

そんな言葉を向けられるたびに、心は大きく抉れる。人の心に賞味期限があるのはよく知っているが、知っているからといってダメージを受けないわけじゃない。どんなマインドセット理論のバリアを貼っていようが、いくらでも貫通してくるのだ。


惨めかもしれないが、私の口からでる言葉は、誰かをつなぎとめるために使われる。
実際のところ、無理やり繋ぎ止めるよりも、まったく新規のコミュニティに飛び込んでしまったほうが心地よかったりもする。私はそんな渡り鳥みたいな生活が案外気に入っているが、あいにくHSP気質なので、そんなことばかり繰り返していると心労で動けなくなってしまう。厄介すぎる性質。

だから、時に羽休めするコミュニティが必要なのだが、実際には心休まる暇はそんなにない。飛べるギリギリくらいまで回復して、離陸準備が整ったら「ネコぐらし、いっきまーす!」の掛け声で未知の宙域に発進するのだ。

意外にも、私はそんな焦燥感に満ちた世界の中で生きている。

書くって「セーブポイント」


ダメージを受けると、冒頭付近で語ったエピソードのように。

「無理だ」とか
「もうやめさせてほしい」
とか

そんな最低限の言葉しかでてこなくなる。
本当は、その結論に至った筋道とか、客観的な視点とかもっと付け加えたいが、心がそれどころじゃなくなっている。

一方で書くという行為は、救いでもある。

心にダメージを受けている時でも、一旦始めてしまえば、どこまでも自分の正直な気持ちや客観的な情報として書き出していける。
外に一旦吐き出されたものは「セーブポイント」に刻まれたデータと同じように時の中で固着化する。不変のものになる。タイムスタンプも合わせて記録できたなら、さらに強固だろう。

もちろん、noteであればサーバーが物理的に破損すれば失われるし、紙のノートであっても経年劣化や浸水、その他要因で失われることはいくらでもある。

だが、それでもかまわない気もする。
書くことは、ある意味で自分の一部をどこかに切り離す行為でもある。

自主的な『解離』


「解離症状」を知っているだろうか。
人間がトラウマティックな被害を被った時、心の防衛機構が意識を意図的に切り離す現象だ。


分かりやすい例でいえば、死体を見てすぐさま卒倒する第一発見者。
あれも軽度の解離の一種だ。ついでに記憶が失われているなら、立派な「解離症状」といっていい。
ショッキングなものから意識をシャットアウトし、心を護るための自己防衛的な作用が、解離だ。

書くことで、自分の中にある恐怖、葛藤、怒り。
そういった一部を意図的に「解離」させることができる。感情の断捨離ができる。

カラオケとかで発散したり、踊ることですっかりストレスを吹き飛ばすことが出来る人もいる。
だが私はそういった方法はまったくダメで、切り離せない。
しかし、書くことは、ちょっとした救いになっている。今日も私は進んで心の一部を「解離」させ続けていく。


言葉足らずな、喧嘩別れ


先日、鳥山先生が亡くなったのは、あまりにもショッキングだった。


だが、同時に私の身近にも、ショッキングな出来事が起こっていた。
といっても、誰かが亡くなったとか、そういった必然的な哀しみではない。

友人たちの喧嘩別れだ。それを間近で見てしまった。


残念だが、私の目にはそれが修復不可能なものに思えた。
きっと、両者も、周囲の関係者もそう思っているだろう。流石に10年後はわからないけど、少なくとも1、2年でどうにかなるレベルではなかった。

だけど、私は、その当事者どちらの気持ちも良く分かっている。
それは一重に、私が「たくさん書いてきた」からだろう。

誤解が怖いから。
伝わらないのが怖いから。

その恐怖心から、私は出来得る限り書いてきた。
人の真意によくよく切り込んでいったし、私自身もできる限り自己開示をしていった。もちろん、十分ではない自覚はある。

だからこそ

(ああ、それじゃあ伝わらないよ…)
(あと、300文字、300文字あれば…)

彼らの争いを見て、そんな歯がゆい思いをしてきた。


真実は人の数だけある


ただ一つ思うのが、私が誰の心を知ったつもりになっていても、人の心の数だけ「真実」は量産されてしまうということ。

時に、運が悪いのか良いのかわからないくらい、ぴったりと「事実」と「事実」が間違ってくっついてしまうことがある。

まるでまったく絵柄が違う2種類のパズルをバラバラに混ぜた時に、偶然、ピースのカタチが一致してしまったような不正解同士のピース。絵柄を見ずして掴んだ人は「見つけた!これが真実だ!」そう信じて、高々と接合されたピースを掲げる。


実際、絵柄はどうでもよいのかもしれない。きっちりとハマった手触りがもたらす快感は、その人にとって変えようのない『真実』なのだろう。


事実は小説よりも奇なり。
だれがいったかこの慣用句。
まさに私の目の前で起こったことは、信じられない真実の話だ。
だって、まったくもって、根本からすれ違っているのだから。


私なら、仲直りの機会を与えられるかもしれない。だが、この文中にも申し上げた通り、私の尻拭いでは遅すぎる。諸行無常。とっくに真実はカタチを変えて先に進んでしまっている。時間は進む。戻らない。

唯一戻ることが出来る機会があるとするならば、喧嘩した当人達が今スグに上り列車を降りて、反対のホームへ行くことだけだろう。
そこまでくれば、私のこの記事が運行表代わりになって、その時の「真実」まで下り電車で案内することが叶う。

だが、果たして目的の駅に降りた時に、当事者の二人揃う奇跡などあるだろうか。
おおよそ、もう一方はとっくの昔に、ずっとずっと先まで進んでいるだろう。



おわりに。


ね”ぇ”え”え”え”

短い文章書けないんだけどぉおおおお

わたし今日は1000文字くらいでって思ってたのに、結局4000文字よ。なんなの?いや読まれんて。ホリエモンも言ってたでしょ。

6割の人は5行以上の文章よまないって。
なんなら9割の人は行間をよまないって。

私の文章の需要のなさに震えながら、今日も書く。
元々流行とか、大衆向けな性格じゃない。

私はある意味、誰もが忘れ去った「過去の駅」を眺めてる浮浪者みたいなものだ。
たまに鈍行列車で、1駅2駅進んだり、かと思えば反対のホームに駆け出して10駅くらい戻ったり。そんなことばかり繰り返している。

私の最古の日記を、思い出した。最古と言っても丁度2ヶ月前だ。

ここでも、私は「過去の膨大なコンテンツに憧れる」って綴っている。どうやら過去にご執心なのは相変わらずなようだ。

でもそっか、2ヶ月記念か。なんだか遠い昔のような感覚。
ここまで続けられた事が嬉しく思う反面、まだまだ何も試せていない、不完全燃焼感も拭えない。


いや、これでいい。最初の3ヶ月は、自分の為に書くと決めた。
みどり|読書のおすそ分けさんの記事。こちらを心にしっかり留めている。


さて、このまま後書きを続けていたらあっという間に5000文字も目指せてしまう。今日はやめよう。ちゃんとやめよう。
でも、ここまで読んでくれる読者様がいらっしゃること、とても嬉しい。ネコぐらしは果報者です。これからもnoteで暮らしていきます。

今日は1段と取り留めのないお話でしたが、ありがとうございます。
またみなさんのnote、見に行きますねっ。

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