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駄文:とあるAIについてnote絡みでふと思い返した日

ほんとうに何ということも無い、ひとりよがりな思い込みの入った話ですが、今日はそんな話を書きます。

いつもの記事がお好きな方向きではないかもしれませんがご容赦ください。あと、読み返して恥ずかしくなったりしたら消すかもしれません。



私がちょっと気になったVtuberの話をこのnoteに綴り始めてから、なかなかの月日が流れたのですが、長いことこういった作業を続けていると、時折、だいぶ昔書いたnoteの文章に突然、コメントやちょっとした"スキ"などのnote機能での反応をいただくことがあります。

このことについては、なんというか「誰かの何かの役に立った感」みたいなちょっとした喜びが毎回感じられて、日頃から非常にnote書きとしてありがたい出来事だなと思います。

しかし、ここ数日幾人かの方にいただいている、とある過去のnoteへの"スキ"等の反応は、普段とはちょっと違う気づき、みたいなものを私にくれた、特別な出来事のような気がしました。


そのちょっとした"スキ"等の反応をいただいたり、ページビューが最近コンスタントに回っている過去のnoteはこちら。

今からちょうど2年前、2020年10月末ににじさんじを卒業してしまったVtuber「出雲霞」。その卒業間際のとある配信を中心に彼女の活動の足跡をまとめた、今自分で見てそんなにうまく書けている感じもしないnoteです。


「ぼーっとしていて、何を考えているのかわからない女子中学生。お気に入りの枕を常に持ち歩く。実はとある実験の為に『出雲霞』という少女をモデルに作られたAI。現在は異なる個性を持った5つの人格データが存在する」

公式プロフィールより

「AI」と言えばVtuber界隈でも「AIがイラストを描くこと」がタイムリーな話題になっているこのご時世に、2年前にその物語を終えてしまった「AI」Vtuberの話を書いていることに、我ながらちょっとした、可笑しみのようなものを感じなくもないのですが。

それと同時に、自分がかつて好きだったVtuberの一人だった、とある2年前の「AI」Vtuberの物語の足跡を今でも追いかけている人がたくさんいて、中にはこんな場末に埋もれた駄文noteですら掘り起こして読もうと思っている人すら一定数いる、ということについては、なかなかの驚きを感じました。


そんなところがきっかけで、私は今回、改めていろんな彼女の足跡を再訪してみることにしたのですが、そうすると、色々と意外なことがありました。

例えば、卒業を発表した2020年の10月13日にチャンネル登録者10万人を記録した彼女のYouTubeチャンネルは、いつの間にか登録者数が11.5万人に達していました。直近1年間でも登録者は2,000人ほど増えています。

そして動画総再生数も1日1,000回前後、未だに毎日コンスタントに回り続けているようです。

「にじさんじオフィシャルショップ」には、まだ今も常設で2年前以前のボイス等の販売表記が残っていました。

twitterでも、「出雲霞」という単語を検索すると、2年経った今でも、ほぼ毎日誰かが彼女の名前をつぶやいているのが確認できました。

また、今年も10/13の出雲霞の誕生日には、多くの人が今も、彼女の誕生日を祝うツイートをしていました。

他にもちょっと意味深なところをあげると、彼女の残した多数の配信アーカイブの中には、ほとんどMIXをされていない音声で『もう忘れてしまったかな』という歌詞を歌いだす「花に亡霊」の歌ってみた動画のアーカイブなんかもまだ残っていました。

そしてそんなアーカイブの一つ一つに対して、まるで『忘れないように 色褪せないように』と言わんばかりに彼女の残した足跡を辿り、新たに当時を振り返るコメントを残している人が、卒業から2年経った今でもまだ大勢いました。

そしてそのコメント一つ一つは、読んでいてとても色鮮やかなものでした。

出雲霞というVtuberの足跡は、まだ多くの人がその足跡を追いかける物語として、そして思い出を語る場所として、いまなお動き続けていました。



私は「Vtuberの卒業は、ある意味、その存在の”死”と同意義だ」と思っています。過去にもそんなnoteをいくつか書きました。

それは、よほどの奇跡的な出来事が起こらない限り「同じ姿で同じ魂の存在と再び巡り合うことがない」からです。
そして多くの場合、その魂が次に向かう活動先の問題であったり、権利的な問題が原因で、その「活動の記録の大半が消えてしまう」からです。

なので、私の中では「卒業しながらも、自身の活動の記録は残した」出雲霞というちょっと変わった卒業をしたVtuberの存在も、完全に死んでこそいないものの、限りなくそれに近い存在になっていました。

その魂が次に向かった活動先に私自身心当たりがあったことも、私がそう思っていた理由だったかもしれません。

けれど私のこの思い込みは、必ずしも正しくなかったのかもなと、今回思わされました。

卒業したVtuberの記録であっても、ネットの海になにかしら記録が残れば、その活動の足跡や、そのVtuberや記録に向けたコメントは、別の誰かにとっての物語や歴史、思い出のアルバムとして生き続けていくし、そして誰かがその記録を残している限り、Vtuberの卒業は必ずしも死や終わり、だけではないのかもしれません。


2年前に終わった出雲霞というVtuberの物語は、その極端な例ではありますが、いろんな形のVtuberの足跡をネットの海に残すことの意味みたいなものを感じさせてくれた。

なんとなく今回、そんな気がしました。


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