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食事と小説について

最近、一日に一食しか飯を食わなくなっている。
ここ10日〜2週間くらいだろうか。

小分けにして冷凍している鍋とかカレーをチンして食べる。付け合わせは納豆とヨーグルト。

明け方にチョコレートをひとかけら食べるが、食事という食事は16時〜18時くらいに一食。だいたいその一食で一日を生きている。

さっきご飯を食べた(ヘッダー画像が今日のご飯だ)。
作り置きのカレーに豆腐を添えて、チンして食べた。

とてもおいしかった。
空腹だと何でもおいしい。


わたしはあまり食事に興味がない。
栄養バランスを考えるのは好きだけど、凝ったものは作らない。
だいたい鍋かスパイスカレー。プロテインと卵。

外食もあまりしない。
外食をすると、一食にかかる出費が高いと感じる。


誰かと暮らしていたころ、自分は「食いしんぼう」だと思っていた。
何かしら常に食っていたし、食うときは胃腸の限界を超えて食っていた。
太っていたし、「外食に行こう」と言われるとワクワクした。

家族と「マツコ&有吉の怒り新党」を見ていたとき、マツコと有吉が食事の話題をしていた。
食生活こだわってる? という話題だったと思う。
そこでマツコさんがこう言った。

「そんな毎回食事にこだわる必要、ある?」

その頃のわたしは「食いしんぼう」だと自認していたが、この言葉が深く胸に突き刺さった。

「そんな毎回食事にこだわる必要、ある?」

確かに。激しく同意。
お夕飯を食べながら「そんな毎回食事にこだわる必要、ないよな」と思った。

数年経って、一人暮らしを始めてから、食事に興味がないことに気づいた。
そんな毎回食事にこだわる必要、なかった。
わたしの場合は。

親や恋人が三食きちんと食べていたので合わせていた。
「一日に三食を食べるのが普通」と思うことすらなかった。

ただ、それを一人でやろうとすると、すごく面倒くさいことに気づいた。
三食食わなくても良くね? と思って二食にしたら普通に生きられた。

人間って三食食べなくても死なないんだ、と発見した。

それなら二食で良いや。三回もご飯食べるの手間だし。
そんな感じで二食になった。


最近、小説やエッセイをたくさん書いている。

ご飯を食べる時間がなくなってきた。
わたしは何かに集中していると飯を食うことを忘れる。
ちょっと面倒くさくなる。

「二食くらい食べないとな」と思いつつ、時間がなくて一食になっている。

それ以外にも、小説が佳境に入ると、飯が食えなくなる。
精神的なベクトルで、食えなくなる。
書いた作品のいくつかで、そういう経験をした。


わたしの書いている小説は、自殺しようとする人が割と出てくる。

ストレートに自殺するんじゃなくて、すごい手の込んだやり方で自分の生命を消そうとする。
どんなに楽しい話でも、そっちに向かってしまう。

死線をさまようと、話が面白くなりがちだからかも知れない。

「エイリアン」とか「バイオハザード」とか、いつ誰が死んでもおかしくないスリラーは、ハラハラしながらずっと見てしまう。
死亡要素を含む話は面白くなりがちだ。

どんな小説でも、死ぬか生きるかの瀬戸際っぽくなってしまうのは、わたしの物書きとしての未熟さから来ているのかも知れない。
未熟さと、あと蠍座(?)。

生死の境を彷徨いがちな人を書いていると、自然に食欲が減退する。

というか、食事をして幸せになると、小説の登場人物の目線に立って、感情を落とし込むのが難しくなる(わたしの場合)。
もっと深く没入すると
「この人死にそうなのに、悠長にご飯食べてて良いのかな……」
という気分にもなる。

自分で空想した話の、架空の人物に申し訳なくなるという、本当に自己完結的でどうしようもない気分に陥る。

わたしの中から捻出した作品は、わたしの影響を受けている。
わたしは捻出した作品の影響を受けて、生きている。

そういった事情も含めて、ここ最近食欲が湧かない。体重も4kg落ちた。
これも書いた小説の何作品かで経験した「よくあること」なので、特に気にしていない。

作品に区切りがついたら、また食えるようになるだろう。

ちなみに、作者であるにしても、こういったキャラクターの考え方がよく分からない。

死ななければならない、という意味が分からない。
「なんでそうなる!」とツッコミを入れながら書いている。

読んだ人にしか分からないと思うが、満月さんに対してもネムルさんに対しても「なんでそうなる!」と思いながら書いていた。
今書いている男の子に関しても「なんでそうなる!」と思いながら書いている。
壮大なセルフツッコミだ。

当たり前だが太宰治タイプでもないので、作品に飲まれて、あっち側に行ってしまうこともない。
そこまでの作家根性とドラマ性はわたしには備わっていない。
(太宰治はともかく、プロでもないのに書くもので鬱になったり、そこまで行ってしまうのは、個人的に「ダサい」とすら感じる。ダジャレじゃないよ)。

ただ、同じ目線に立たないと書けない。
書いている作品と影響し合わないと、納得の行くように書くことが出来ない。

これは一見ストイックに見えて、健康体のまま、その領域まで落ちていける天資がないからだろう。

ただ、食えないながらも楽しんでやっている。
精神的に参ってはいない。むしろ、エンジョイしている。

体力は落ちている気がするけれど、そういう身体的没入がおそらく趣味なのだ。
筋肉ムキムキになりたい人が、筋トレや食事制限をして、筋肉ムキムキになることと似ている。


小説の話はこのくらいにして、最後に。

かつて一緒に暮らしていた人に、食事に関してマジギレしたことがある。
その人は大変なグルメで、かなりクオリティの高い三食を摂取しないと気が済まなかった。

わたしは反対に、栄養さえ取れれば粉でもいいやと思う派の人間なので、食生活に関しては、日頃から意見の相違があった。

ものすごく疲れ切って帰ってきて、夕飯も食いたくないしもう寝たい、と思った時だった。
その人に「夕飯を食べないと絶対ダメ!」と言われて、ちょっと議論した末に「カップラーメンにしよう」ということになった。

わたしも「カップラーメンなら簡単だし良いか」と妥協した。
鍋に湯を沸かして、カップラーメンを二人分作ろうとした。

そこで彼は「もっと美味しくしよう」と言って一手間くわえようとした。

「サッポロ一番」のCMで、
「この一手間がアイラブユー」というキャッチフレーズがある。
卵とかネギとかをちょい足しして、好きな人のためにちょっと美味しく作りましょう、みたいな感じだったと思う。

「この一手間がアイラブユー」なのは、ちょい足しの範囲内だけだ。

グルメな彼の一手間が、調理に一時間くらいかかる豪勢な食事を求めているのを見て、わたしは思わず泣いてしまった。

感動の涙ではなく、怒り狂って泣いた。

「おいっ! なんでカップラーメンにそんな手間をかけるんだよ! カップラーメンの意味ないじゃん! こっちは疲れてんのにさ! 一刻も早く寝たいのに、ご飯食べたいっていうからわざわざ作ってんだろ! なんで分かってくれないんだよっ! たまには適当に飯を食ったって良いだろっ!」

ということを泣きながら訴えた。

眠気と疲れと食事に対する鬱陶しさで、わたしは完全にキレていた。

疲れてんだから今日はもう適当でいいだろ。
この言い分、本来なら男側が女側にキレるものだろ。なんで男女逆転してんだよ、というやるせなさも交えつつ、マジギレしたことを未だに覚えている。

何年も前の話なのに、目に浮かぶほど鮮明な記憶だ。
食い物に関する恨みは恐ろしいのだ(意味が少し違うけど)。


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