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愛と野球とときどきchillを@2023年秋の読書記録


本が私を救ってくれなくても


本「が」直接誰かを救うというマジカルな体験は、残念ながらそうそうないと私は思うのです。

しかしこの頃はプライベートで思い悩み、誰にも相談できずにふさぎ込んでいた時期でした。救ってくれるわけではないとはいえ、本が示唆を与えてくれる機会は多かったように感じます。

物書きが読んでいる本を明かすのは仕事道具を見せるようなものだと考え、あまり出していない時期も長かったのですが、今回もnoteに読んだ本の感想を載せていきます。

積んでいる本は数百冊。崩すペースはゆっくりと。


01.エーリッヒ・フロム『愛するということ』


だいぶ前に読んだのに、前回の記事に入れるのを忘れていました。この後出てくるすべての本の底流にある一冊だといえます。
大学時代たしかに読んだ記憶はありますが、そのころの「愛する」経験の少なさや拙さを鑑みるに、私は本質的にこの本を「読む」ことができていなかったのだと思います。
その時から愛する・愛される経験をいくつか積んだことで、人生におけるこの本の価値はぐっと増しました。これから年を重ねるにつれ、何度も読み返すことになるでしょう。

インターネット上には「愛されたい」人の嘆きが溢れていて、「モテる」「愛される」「沼らせる」ための情報商材が転がっています。
しかし、「誰かを愛したい」という呟きが見えることは、前者と比較して非常に少ないように思います。「愛する」ことと「愛される」ことが(プライベートな関係においては)基本的に等価である以上、「人はなぜ愛することから始めないのか」という現象は若干奇妙にうつります。

フロムは「愛するという行為は技術である」という出発点から、「愛される」より常に「愛する」ことに力点を置いて議論を進めています。
真理でも美徳でもなく、理論と技術。一見ドライなように見えますが、そうであるがゆえに人は学び、何度でも成長することができるというのが本書の主意です。
フロムの語り口が平易かつ翻訳がすばらしいこともあり、非常に読みやすい本ですが、魂で理解するのには時間がかかる。そういった意味でかなり特異な本だと認識しています。
難読書だといわれますが、チャレンジしてみる価値はあると思います。一生に一度、いや二度三度は。

02.竹田ダニエル『#Z世代的価値観』


待望の二冊目です。発売日に買って読破しました。
出典がwebサイト上のコラムをまとめたものであるため各個のトピックが分散していることもあり、前巻『世界と私のAtoZ』で骨子をつかんでから読む方がスムーズに思えます。
私はこの歳にもなってハリー・ポッターが好きな「cheugy(ダせぇ)」ミレニアル世代です。
しかし、この本における「Z世代」というのは、ミレニアル世代やその上とは分断されていて、相互理解が不可能な「生まれた時代」を表すタームではありません。コロナ禍やインフレなどの絶望を経験し続けて思春期・青年期を過ごした若者の「価値観」であり、Z世代に当てはまらない人でも学んだり、研究したり、取り入れたりすることは可能という意味で、非常に勇気づけられました。


たとえば私のような日本の「ゆとり世代」が受けたユルい学校のカリキュラムをZ世代が追体験して、そこから価値観を醸成していくといったことは不可能でしょう。
しかし、コロナ禍や不景気で不安定な状況に置かれているのは、日本のどの世代も一緒です。

私は歳の離れたきょうだいがZ世代で、しかもアメリカのあらゆる音楽を聴いて育ったノーミュージックノーライフ人間なので、実家に帰るたびよく話をしています。

かれは私よりずっと精神的に自立しています。物心ついたときからYouTubeがあったので、サザンロックからヒップホップまで、洋楽オタクの両親ですら知らないあらゆる音楽を自力でdigっていたことが原体験になって、今「好きなもの」を誰に影響されることもなく形作っています。
タワレコ、HMV、ディスクユニオンに入り浸ってLPやCDといった物理媒体も漁っていますし、今や自宅にDJブースが完備されていますが、それでも根っこにあるのは変わりません。
かれの中心にあるのは、膨大な情報(かれの場合は音楽)を取捨選択して、自分なりに適切なものを血肉とする能力であり、それは私にはあきらかに欠如しているのです。

私はずっとハリー・ポッターが好きでそれをアイデンティティにしていましたが、なぜ好きになったのか、と言われると「流行っていたから親がVHSを借りてきた」ゆえにほかなりません。今読んでもまあまあ面白いし魅力的ではありますが、図書館や書店の片隅で「自力で」発見したコンテンツではないのは確かです。

誰にとってもインターネットが身近になり、われわれは膨大な情報やショッピングサイトの中から「自分だけの」消費行動をとれるようになったと勘違いしがちです。とはいえ、我々の消費の大部分はインフルエンサーによってときに露骨に、ときに巧妙に誘導されています。
このコスメは、このオタクグッズは、このブランドバッグは、この新作ドリンクは、このゲームは本当に買わなければならないものなのか。
実のところ企業が誘導する資本主義に飲まれているだけでは。

認知を変えるには行動から。行動を変えるには認知から。
どちらが向いているかは人それぞれですが、このまま「流される」ままに消費をしていてよいのか、という基本的にして大切なことに警鐘を鳴らしてくれる本でした。


03.下村一喜『美女の正体』


再読です。2016年の刊行時に買っていましたが、当時と今では元号も変わり、美の基準も変わり、私自身の容姿も変わり、インターネット上にはルッキズムが氾濫し……もう一度美について見つめなおしたいと思い読み返しました。刊行当時美術史界隈では非常に話題になった一冊です。

我々はどんなに整形しても、ご飯の量を絞っても、塩を抜いても、美容医療を施しても、やはりグレース・ケリーや吾妻マリにはなれないわけですが、それでも美を追求する心理は何か。
そして外見だけでなく総合的に「美しい女性」とは何か。

軽い読み心地の本ですが、キャメラマンとしてあらゆる美女と向き合い、その美しさを引き出してきた著者の人生観と美学が詰まっている珠玉の一冊です。
個人的には「大事にしている自己啓発本」を三冊挙げろと言われたら、そのうち一冊にこれを入れると思います。

今日は筋トレやめよう、とホメオスタシスが働く自分に、この文章が鍼のように効くのです。

着るものだって、そう。言葉遣いも、身のこなしも表情も。
誰も見ていないからどうだっていいや、とスイッチを切ってしまう人と、誰も見ていないかもしれないけれど、自分のために頑張ろうとスイッチを入れた人とでは、印象が全然違います。
1年後。3年後。10年後。50年後と、その差はどんどん広がっていきます。岸惠子さんと、その同級生たちのようにね。
もちろん、そこまでしたくない人は、ぐうたら生きるという選択肢もあります。

下村一喜『美女の正体』

この夏の目標は「日焼けしつつ筋肉量を上げたい」で、実際海に山に球場に存分に出かけて、タンニングしつつとっても黒くなりました。幼稚園の頃くらい色黒に戻った自分を愛せていますし、日焼け止めがなくても痛くならない、赤くならない体質はラッキーだと捉えています。
ASD由来のテストステロンの異常分泌の影響もあって筋トレの効果が非常に出やすく、おそらく今はパートナーより筋肉量はあると思います。

自分の「美白ではない」肌色や、男性ホルモンのおかげで「女性らしくないからだ」に対してポジティブに向き合えるようになったのは、やはりスポーツの存在が大きいです。

秋はもっと走りたいし、もっと重いウェイトを上げたい。そして何よりストーブリーグなので本を読みたい。
今はトムフォードのShamelessが一番似合う自分が、結構好きです。
でも、まだまだ自分を好きになる余地はあると思います。


04.村上春樹『一人称単数』



文庫化されてから何度読み返したでしょう。……「ヤクルトスワローズ詩集」を。

親が『風の歌を聴け』掲載時からの熱狂的なハルキスト、そして新宿区生まれ新宿区育ち早稲田文学部卒である私にとって、日本のあらゆる文学者のなかで「村上春樹」だけはどうしても避けては通れない存在でした。

ある時期には実家の本棚にある長編をぱらぱらと読み、ある時期には毛嫌いし、またある時期にはふらっと戻ってくる。
小説や翻訳に関してはやはり「癖」があり人を選ぶと今も思いますが、とはいえ私は春樹のエッセイに流れる虚飾のない諧謔がずっと好きでした。

そして、それらの諧謔は実のところ「ヤクルトスワローズファンである」という私同様の悲惨な運命から来ているのではないかと、内心思っているのです。「読売巨人軍ファンの文学者村上春樹」という概念は、果たしてこの世に成立するのでしょうか。


春樹が強烈なスワローズファンであるという事実は他球団ファンには案外知られていないようで(たびたびナベツネと讀賣disをかましているので巨人ファンには知られているようですが)、カープファンの……春樹アンチの……恋人に読んでもらったら本気で爆笑されました。そして爆笑されたあと、「この本には真理が詰まってる。『負けることに慣れないと』野球はできない」と、意外にも感心されてしまったのです。
どうしようもない負け試合で外野手のお尻を眺めることしか楽しみがない詩が載っているのに?

そう、人生は勝つことより、負けることの方が数多いのだ。そして人生の本当の知恵は「どのように相手に勝つか」よりはむしろ、「どのようにうまく負けるか」というところから育っていく。
「我々の与えられたそういうアドバンテージは、君らにはまず理解できまい!」僕は満員の読売ジャイアンツ応援席に向かって、よくそう叫んだものだ(もちろん声には出さなかったけれど)。

村上春樹「ヤクルトスワローズ詩集」

春樹がアトムズを応援するようになったきっかけは、この作品でははっきりと明示されていません。ただ「(大学生となり)阪神間から上京してから神宮に足を運ぶようになった」とあるだけです。
ただ、つい先日ようやく答えが本人から示されました。

一回だけ足を運んだ早慶戦で、「早稲田大学野球部」ではなく「神宮球場」に魅せられ、大学野球ではなくアトムズを応援することに決めた。
どこまで行っても春樹らしいというか、ある意味予想を一ミリも外していないというか。


「くるりんぱ」をするつば九郎と、投球練習をする広島東洋カープ・九里亜蓮投手

話を変えて……今年のヤクルトは破滅的に弱いですが、私はそこまで気にしていないのです。長年ヤクルトを応援してきた肌感覚からいって、「連覇した」ことそのものがちょっと異常な球団なのですから。

夕暮れ時でもうだるような暑さの中、3000円ほど払って球場に入る。パイン氷を食べている中、後ろの席の誰かがビールをこぼす。
ハタケなりバレンティンなり山田哲人なり村上宗隆なりがホームランを打って、五回裏に盛大な花火が上がって、(あなたがホーム側に座っているなら)七回裏で馬鹿みたいに東京音頭を歌って傘を振る。そのあとのチャンテは言わずと知れた「夏祭り」。
花火大会で人に揉まれる必要もなければ、汚れるリスクを抱えつつきれいな浴衣に身を包む必要もありません。
東京の夏を楽しみたいなら、ただ神宮の花火ナイターに来ればいいのです。

ヤクルト・北村恵吾選手のプロ初本塁打グランドスラム

周りは敵も味方もユニフォームや応援グッズで身を固めているかもしれませんが、我らが岡田団長は「グッズを買う金があるならチケットに回せ」と明言していますので、その必要はないのです。
ただ席を埋めに来るだけでいい。それが神宮球場です。

東京ドームの空調が効いた空間が、野球観戦をするうえで神宮よりずっと快適なのは事実です。
それでも、こんなに幸せな東京の夏は、神宮球場の他には存在しないと私は確信しているのです。


05.迫勝則『逆境の美学 新井カープ”まさか”の日本一へ!』

広島市内の書店で手に取って、帰りの新幹線内で読んだ一冊です。
マツダで観戦したカープ-巨人のカードは3戦2勝。好きな堂林翔太選手が3ランをかっ飛ばしてお立ち台に上がったので、あれだけでも新幹線代の元が取れたというものです。

マツダスタジアム前「新井ロード」



カープとスワローズは仲が悪いわけではありません。が、チームとしてもファンとしても、本当に全く辿ってきた歴史が別物だと感じます。
カープはチームとしては常に「強者の風格」があると感じます。緒方孝市監督時代の三連覇の空気が新井さんによって正しく継承され、当時の布陣から坂倉、小園、栗林、末包といった佐々岡監督時代のルーキーを加えることで、再び盛り返しているように見えます。

ファンの熱量は無論全球団の中で随一です。広島市内はどこも真っ赤で、紙屋町のいたるところに新井さんの広告が掲示されています。


マツダスタジアムグッズショップ内の超巨大新井さん



「長い球史のなかで解散の危機に何度も晒されながらも、『市民球団』としての矜持で、ファン……否、広島市民全体がカープを支えてきた。」

神宮、ハマスタ、東京ドーム、スポーツバー、そしてマツダスタジアムで野球を観て、様々なカープファンと話しているうちに、そうしたナラティブを共有するカープファンは(広島出身であってもそうでもなくても)、ぜんたいとして家族のような共同体だと思いましたし、実際カープは球団とファンそのものを「家族」と形容していることも、この本で初めて知りました。ヤクルトを応援していてそういう感覚に包まれたことは、ついぞなかったように思います。

では、今年のカープを作っている「新井貴浩」とは何者なのか。そこに迫ったのがこの本です。
――球団の歴史ではなく、まず新井さんの本を手に取ったのは、ある日恋人の家を訪れた時、部屋に大量のグラブやバットとともに新井と黒田のホームユニが飾られていて、心底「かっこいい……」と思ったからなのですが。


広島市中区本通り、黒田博樹投手の記念碑。

新井さんの現役時代「なんとなくスワローズを応援していた」私は、新井貴浩がとにかく粘り強いバッターなのは知っていましたが、パーソナリティまで掘り下げて見ていたわけではありませんでした。「新井が悪いよ新井が」「辛いです……」といったミームも知ってはいましたが、阪神移籍、そしてカープへの帰還に至るまでになにがあったのかも、正確には把握していませんでした。

駒沢大時代はいい成績を残していたとは言えず、カープ入団も半ば球団側の温情のような形だった新井さん。
そんな中でルーキーとして、球団・市民からの期待を背負い「がむしゃら」としか形容できない猛練習を繰り返して、やがて日本のトップを走るバッターに成長した新井さん。
新井さんを追い続けるジャーナリストの目から見ても衝撃だった阪神移籍と広島への帰還。そして今回の監督就任。

ペナントレース序盤に書かれたこともあり、今年の各選手の活躍予想などはところどころ間違い(というか外れている箇所)がなくはないですが、そもそも下馬評では最下位予想が大半を占めていたのが今年のカープです。
選手とともに、いや選手以上に活躍を全身で喜ぶ一方、書き込みだらけの『野村ノート』を手に采配というものに向き合う。この本に書かれた新井さんの姿は、シーズンを通して一貫していました。

書き込みだらけの『野村ノート』を携えているのはヤクルトの高津監督も同じです。新井さんは連覇した球団の美点と弱点を吸収しつつ、「カープにしかできない野球のあり方」を実現していると強く感じた一冊でした。

カープファンで埋まるマツダスタジアム内野席


復調を遂げクローザーとして返り咲いた栗林良吏投手の登板

06.野村克也『野村ノート』


カープとスワローズ。応援している球団の違いはあれ、恋人とは互いに……リスペクトしあっているので……野球がらみで喧嘩することはほぼありません。カープ-スワローズ戦はデートでは行かない、という紳士協定もありつつ。

恋人は「捕手は配球がすべて。打率は関係ない」という信条で、坂倉より曾澤、大城より小林、森友哉より若月という派閥ではあるのですが、私個人としては初デートで満塁ホームランを打った坂倉は結構好き、程度の違いでしょうか。
また、カープもスワローズも菊池、山田という絶対のセカンドを軸に守備を見ることになるので、小学校から大学まで投手、今はセカンドメインで野球を続けている恋人には「戦う側」としての野球をいろいろ教えてもらいました。

が、一回だけ私がちょっと感情的になった一件が。
恋人は小学生の時から『野村ノート』を読み込んでいて、新井さんや高津監督同様あの本に書かれた一言一句すべてを血肉としているタイプの野球人です。
そんな彼に「『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』って言葉があってね」と言われたとき、私は思わずこう切り返していました。

「誰に向かって物を言ってんだよ! 私はヤクルトファンだぞ!」

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」。
ヤクルトファン(阪神や楽天もそうかもしれません)である私が、ノムさんのこの言葉にどれだけ翻弄されてきたか。
ヤクルトがオリックスを破って2021年日本一になった次の日には「今年は『不思議の勝ち』だから来年はどうせ最下位だよ……」とぼやいていたのが私です。

勝っても慢心できない。負けたら理由を考える。

そうやって私はちょっとずつ卑屈になってきたのですが、「どうしても譲れない最後のライン」は、私にとってはどうやらノムさんだったようです。
「政治・宗教・野球」と言われるくらいセンシティブとされる世界で、そもそも他球団ファン(しかも同じリーグ)同士が恋人としてやっていくこと自体奇跡のようなすり合わせが必要ですが、そこはお互い様。
私は彼に勝ち方を教えてもらって、代わりにスワローズファンとして上手な負け方を教える。そんなシーズンだったように思います。

07.こうの史代『夕凪の街 桜の国』


カープの野球をマツダスタジアムで観るために広島を旅行した。
半分は本当ですが、半分は違います。

今年の広島はG7サミットをはじめ、さまざまな話題で世界中から注目されていました。
そして私が旅行した時期は、「Barbenheimer」という邪悪なミームでインターネットが大炎上していた時期、そして平和式典の時期が重なっていたこともあり、ネット上の言論空間は怒りで溢れていました。

ただ、わたしとしては「#NoBarbenheimer」とハッシュタグをつける前に、まず「原爆が投下された地に行って、この目で核兵器の被害の実相を見なければ何も始まらない」と思い、広島に足を運びました。

特に見たかったのは「人影の石」でした。
ウクライナ(チョルノービリ原発事故の惨禍を経験したことと、独立当時世界三位の核保有国になって核放棄を経験したことは無論付記しておくべきでしょう)のゼレンスキー大統領が「人影の石」の写真を見て、「影」にまつわる悲痛ながらも力強いスピーチを発した、あの展示です。


2023年8月19日、広島国際会議場「G7広島サミット回想展」にて。
ゼレンスキー大統領(ウクライナ)の芳名録(複製)

原爆ドームを見る。広島市内に置かれた原爆投下当時の写真パネルを見る。
入場まで一時間待ちの原爆資料館に赴き、展示の数々を見る。
渡り廊下でうずくまっている人、泣いている人、俯いている人を見る。


2023年8月19日、原爆ドーム


同日、広島平和記念資料館


2023年8月21日、旧帝国銀行広島支店前。現広島アンデルセン

仮にも史学の学位を持っている人間として、虐殺の歴史は常に学んできたテーマでした。どんなに悲惨な史料であってもこの目で正視するのが当たり前になっていて、それは私の人生における義務だと認識しています。
一方、国や地域を問わず無数のご遺体の写真、映像、史料と向き合い、良くも悪くも「衝撃を受けないよう感情を鈍麻させてきた」ことは、いつの間にか「悲惨な歴史的事実を目にすることで引き起こされる二次受傷」のリスクを軽視しているのかもしれないとも思っていました。

そしてこの作品のあとがきを読んで、『この世界の片隅に』で知られるこうの史代先生が、もともと広島出身でありながら「原爆」の悲惨さに向き合うことが難しく、資料館で何度も倒れてしまっていたということを知りました。
原爆や戦争にトラウマを抱える作者が、膨大な史料と向き合いながら織り上げたフィクション。描かれているのは数人の架空の人物の歴史かもしれませんが、作品を作り上げていく中で、こうの先生はいったい何万、何十万の方の死と向き合われたのだろうと想いを馳せてしまいます。

『この世界の片隅に』は映画から入りましたが、原作漫画では徹底的な取材に基づく当時の習慣・風俗などの補足が、画面全体を覆うようにびっしりと文字情報として書かれていたのが印象に残りました。

いっぽう、その前の作品にあたる『夕凪の街 桜の国』では、「史実」に関する補足描写はほぼないといっていいほど抑制的です。「主人公が被爆者/被爆二世であること」はモノローグや周囲の言及によってうかがい知ることができるのみです。

特に私は「夕凪の街」を読んだ後動けなくなってしまいました。被爆後しばらく経って後遺症でこの世を去った方については、資料館の展示で、あるいは原爆ドーム前の語り部の方のお話で見て、聞いていましたが、「夕凪の街」は40ページ弱のごく短い作品でありながら、一生忘れることはできないのではないかと思います。

ぜんたい この街の人は 不自然だ
誰もあの事を言わない いまだにわけが わからないのだ
わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ 思われたのに生き延びているということ
そしていちばん怖いのは あれ以来 本当にそう思われても仕方のない 人間に自分がなってしまったことに
自分で時々 気づいてしまうことだ

こうの史代「夕凪の街」

あの日を生き延びてしまった。無数の犠牲者を見殺しにしてしまった「加害者」としての意識に常にさいなまれている皆実。
打越さんとの「ありふれた」幸せを拒絶してしまうほどの傷に向き合う時間すら、皆実には用意されなかった。放射線を浴びたことによる後遺症が、容赦なく命を奪う。

皆実の親類が命をつないだ先にある「桜の国」では、被爆二世が受ける差別が主題となっています。
「原爆投下」の傷は、78年経った今なお癒えていないし、決して過去のものでもないのです。

なぜ広島と長崎でなければならなかったのか。
あの街の外で生を享けた私たちは常に、その事実にだけは向き合わなければならないと感じています。


マツダスタジアムにて。新井監督と黒田球団アドバイザーのユニフォームの展示

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