【美術】当麻曼荼羅とはなにか? - 特別展「法然と極楽浄土」
《綴織当麻曼荼羅》が東京に来る
今年初春、「《綴織当麻曼荼羅》が東京に来る」という大ニュースが仏像界を駆け巡った。
《綴織当麻曼荼羅》/《当麻曼荼羅貞享本》(展示替えあり)は現在開催中の東京国立博物館「法然と極楽浄土」で見ることができる。会期は6/9(日)まで。
筆者は仏教美術のなかでも綴織当麻曼荼羅(以下根本曼荼羅と呼称)と当麻寺(奈良)がまさしく学部時代の専門だったこともあり、この傑作が関東で展示される機会を待ち望んでいた。
《阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)》や《法然上人絵伝》など、優品が多数揃う展示ではあるが、この記事では当麻寺と当麻曼荼羅にスポットを当てることとしたい。
当麻曼荼羅とは
まず「当麻曼荼羅とは何か」という概要から説明したい。
《根本曼荼羅》は奈良時代に当麻寺に収められた約4m×4mの巨大な綴織である。
綴織は極めて高度な技術を要する上に、根本曼荼羅ほどのサイズの作品を作るには10年単位の時間と巨大な工房を必要とするため、当時の日本で制作されたとは考え難い。このため完成品を唐から遣唐使船で持ち込んだと推測できるが、具体的な時期や、どういう経緯で当麻寺に伝来したのかについては未だ研究の余地がある。
描かれている図柄は「浄土変相図」、なかでも「観経変相図」と呼ばれるもので、これは観無量寿経(法然がとりわけ重視した経典「浄土三部経」のひとつとして知られる)に描かれた風景を忠実に視覚化したものである。
同時期の類例は織成品では現存しないが、敦煌莫高窟ではいくつかの石窟に非常によく似た壁画が見られる。
根本曼荼羅は長く存在を忘れ去られていたが、法然の高弟である証空が発見したことで広く知られるようになる。
その頃から写しが大量に出回るようになり、それらすべてが「当麻曼荼羅」と呼ばれるようになった。
中心部には極楽浄土の様子、
右部に観想の様子、
左部に王舎城の悲劇のエピソード、
下部に九品往生の様子が描かれている。
緻密かつ構築的な図柄が「曼荼羅」のように見えることから「曼荼羅」の名がついているが、狭義の曼荼羅とは異なることに留意(同様のケースは《智光曼荼羅》などにもいえる)。
当麻曼荼羅と中将姫伝説
さて、この根本曼荼羅がいつ、どのように作られたかは長い間「謎」とされていた。
そのため、当麻寺では「中将姫」が阿弥陀如来の力を借りてまたたく間に織り上げた、という伝承が中世より存在している。
「法然と極楽浄土」でも、伝承の草創期に描かれた絵巻《当麻曼荼羅縁起絵巻》(国宝)が展示されている。
当麻寺では中将姫の命日である4月14日に練供養が行われ、極楽浄土へむかう菩薩の様子が華やかに再現される。
他にも「法然と極楽浄土」ではこの練供養で使用されていた菩薩面や《当麻寺練供養図》なども展示される。
中将姫をもとにした芸術作品で知られているのは、なんといっても折口信夫『死者の書』だろう。
東博で当麻曼荼羅と浄土の世界に触れた後は、ぜひ文学でも古代の息吹を感じてはいかがだろうか。