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2011年3月11日に新宿の高校2年生だった筆者の記録

はじめに:フラッシュバックについて

この記事には東日本大震災当日の記述が含まれています。
この記録を残すことは必要だと考えていますが、当時被災した、あるいは被害の映像を見たことでフラッシュバックを引き起こす可能性が少しでもある方は、閲覧しないことを強くおすすめします。
この時期は震災に関する報道が繰り返され、SNSなどで震災当時の様子についての言及が増えますが、震災によって精神的なダメージを負った方々へのメンタルケアは最優先されるべきだと考えています。

わたしは思い出す


わたしは思い出す。2011年3月11日を。
わたしは思い出す。三者面談の日のことを。


2011年3月11日、新宿、東京、Instagramにアップした写真

この写真は2011年3月11日13時頃に「エモい(当時この単語はないと思うけれど)」からという理由で、新宿のどこかの路地で筆者が撮影したものである。
新興の面白そうなwebサービスになんでも登録する極度のアーリーアダプターだった私は、当時はまだ「正方形の写真をアップできるSNS」に過ぎなかったInstagramに、高校生が持つのは珍しかったiPhone3GSを使って、その場でアップしていて、記録が残っていた。当時からInstagramはFourSquareと連携していたので、ある程度の位置情報も残っているはずだ。

タイムスタンプがあり、女子高生特有のバカさがあり、現在もInstagramのサービスが続いているため、原理的に閲覧は可能なはずの投稿ではあった。
そして、2011年前後の文化と私自身のバカさを考える上で、まあまあ史料価値もあった。

しかしそのアカウントは、ある時点でとあるひとにセカンドレイプ含む嫌がらせを受けて、結局心が折れて削除してしまった。今となっては、たまたまFacebookにInstagramを紐付けていた時期にアップしていた十数枚(これもその一枚)しか、当時の記録を辿る術がない。

当時の私は不登校から抜け出して間もない時期だった。

私は実はかなり重度の不登校で、中学2年生の秋から高校2年生の夏頃まで、一切学校に通えていなかった。ネットをしたりゲームをしたり、ネットで作った友達と遊んだり、美術館に行ったりして、勉強なんて一切せずに暮らしていた。
だが、留年の危機に直面して学校でいやいや課題をこなしているうちにやる気が出はじめ、ようやく毎日「学校」なるものに通えるようになったところだった。友達もできたし、先生方も優しいし、楽しいと思っていた。

その日は本来試験明けの休みだったが、私はちょうど12時半頃から三者面談が入っていた。部活などで登校している生徒が一応ぱらぱらといたが、卒業式も終わり、試験も終わったということで、たいへん長閑だった。そして私は母と学校に行き、担任と進研ゼミの模試の結果を見て「うーむ」と悩んでいた。

なんだこの偏差値は。
国語70英語40日本史60って。勉強してないのに。

受けた私としては特に驚くに値しない結果だったが、一番頭を抱えていたのは国語を担当していた担任だった。
なんで学校で授業を受けていないのにこんなに点が取れるんだ。「天才だから」としか説明がつかないと、担任は言っていた。

しかし私は別に天才ではない。
たまたま小学6年生のときに中学受験塾に放り込まれ(中受を考えている親から見ると放り込むのが遅すぎると思う)、一年間の勉強で一応偏差値60くらいの私立ミッションスクールに滑り込むことができたに過ぎない。
中受のときに現代文の解き方を理解していたから、それをそのまま使って解いた「だけ」だった。
で、毎朝よく意味も理解できていない「主の祈り」を唱えさせられるミッションスクールが肌に合うはずもなく挫折して、不登校になった。

日本史が平均よりも取れていたのも、中受の時の知識だった。で、英語は当然中2の段階で止まっているので、現在完了も怪しい段階。こういう結果になるに決まっている。

行きたい大学は、と聞かれて、美術史が学べる大学、できれば文学部がいいと答えた。美術館と、文学が好きだったからだ。

理数系の科目が英語以上に壊滅的なのはわかっていたので、その時点で文系3科目に絞ることは決めていた。
志望校として、「なんとなく」父が卒業した大学と、同レベル程度のもうひとつの大学を挙げて、結局一年後に両方受かった。すこし迷ったが、よくわからないバカの反骨精神から、父が行ってない方の大学に進学して、美術史を専攻した。

話を当日に戻す。

「英語に関しては予備校や個別指導含めて、少し考えてみましょうか。片桐さんなら英語に集中すれば1年で受かると思います」
と言われ、面談は終わった。

どうしようかなあ。東進と駿台と、代ゼミと河合の区別も、正直あまりついていないのだけれど。
どこが向いているんだろう。

母は先に帰ると行って駅に向かった。弟が通う小学校の保護者会があるからだ。私は「その辺ふらふらしてから適当に帰る」と言い、寄り道して帰ることにした。

春休み、しかも私はバカだ。新宿から行ける場所には無数の娯楽がある。
新宿のタイステには特によく通っていて、jubeat knitをやっているときにしょっちゅうTwitterのフォロワーと鉢合わせていた。
なんでEvans赤をステルスで鳥S取れるんだ、フォロワー。押したら光るゲームじゃないんだぞ。光るところを押すゲームだぞ。



そしてなんといっても、原宿は天国だった。
ロリィタがあり、ゴシックがあり、森ガールがあり、フェアリー系があり、いたずらぐまのグル~ミ~が流行っていた。


私は雑貨ほぼ全てをSwimmerで揃えて、ペンケースだけBABY, THE STARS SHINE BRIGHTの「うさくみゃちゃん」にしていた。

うさくみゃちゃんのペンケースと、Swimmerと。
スタバがクリスマス仕様なので、おそらく追い込みの時期。



ロリィタを愛していたが、金がなかった。しかしすべてのカワイイがあったから、店を見て回るだけで十分だった。
当時私は中田ヤスタカとYMCKとへなちょことALI PROJECTを死ぬほど愛していて、CapsuleとPerfumeを擦り切れるまで聴いていた。

震災から数ヶ月後、きゃりーぱみゅぱみゅが鮮烈なデビューを飾り、世界に衝撃を与えた。YouTubeさえあればJ-POPが世界に通用することが証明された瞬間だった。

歌舞伎町のゴールデン街に足を運ぶこともあった。当時は黒色すみれが手がける「すみれの天窓」があり、当然酒は飲めない身なのだが喫茶店として利用していた。親は「あんなところにひとりで行くなんて!」とキレていたので、誰にも言わずこっそり通っていたのだが、別に当時は昼間であれば危なくはない土地だった。だって、「幸福な王女さま」が好きだったから。

すみれの天窓。2012年10月撮影


TOHOビルができる遙か前なので、トー横などという概念は当然存在していない。永遠に工事中のブラックボックス、「旧コマ劇前」としか認識していなかったし、用事なんてあるわけない。ちなみに私の人生初の映画体験は取り壊し前のコマ劇・新宿プラザ劇場で見たディズニー映画「ダイナソー」である。

しかし、私はどこにも寄らず、単に散歩をすることにした。
だってうららかな晴れの日だったからである。たとえば今日……2023年3月11日のような。屋内にいるなんてもったいない。

新宿西口のビル街を歩くと、おしゃれな着こなしの袴姿の女性がたくさんいた。後ろ姿を写真で撮ったが、残っていない。あの辺りにはファッション系の専門学校が複数あったので、卒業式だったのだろう。
見ているだけで楽しくて仕方なくて、満足して、新宿駅から普通に家に帰った。

家に着いたのは14時頃だろうか、私はパソコンを立ち上げて、いつものようにTwitterを見ていた。
PCベースの個人小説サイトを持っていたので、どう更新するか迷っていたのだと思う。
先に戻っていた母は準備をして、家を出た。14時、恐らく43分頃。


14時46分。経験したことがないほど大きく、長い揺れが襲った。背後に父の蔵書がぎっしり詰まった2m以上の本棚があったので、「これ死ぬ」と思って咄嗟に逃げた。「なんで中上健次全集全15巻に頭ぶつけて死ななきゃならないんだ」と脳内で愚痴った記憶がある。

震度5程度。しかし異様に長い。
中越地震と中越沖地震で、柏崎(当然、原発からそう遠くない)の親族が震度6以上の被害を受けていたので、これは尋常ではないと察して、テレビをつけてTwitterに貼り付いた。

Twitterのタイムラインは異様だったが、よく覚えていない。
テレビの大津波警報、そして津波予想7mという見たことない数字に、背筋が凍った。

津波注意報なんて、それまではせいぜい「50cmか1m」。しかも情報が出ても、実際に被害が起きることはあまりなかったので、「言うて何もないでしょ」と思って流していた。しかし7mは「絶対に来る」。
ひとまず家を飛び出した。母を呼び戻さないとと思った。

何が保護者会だよ。7メートルだぞ。津波。

母は20メートルほどの距離の場所にいた。私は叫んだ。

「待って! 津波! 宮城で7メートル! この地震ヤバいから戻って!」

しかし、母はそのまま行ってしまった。聞いていなかったのか。

後から聞いたら、保護者会に集まった保護者達は一応ニュースを知ってはいたが、さほど大事だと認識していなかったらしい。皆ガラケー持ちで、ネットの情報に即アクセスできるわけではなかったし、小学校にすぐつけられるテレビがあるわけではない。外にいた母は揺れは認識していたが、やけにひどい立ちくらみだと思っていたらしい。

弟は学校にいる。父は都心の会社にいる。
私はひとりで家にいた。
茫然として、パジャマ姿で、テレビに釘付けになっていた。
津波が町を吞む様子も、流される車の映像も、テレビで一部始終を見た。
スマトラ沖地震の津波の映像は物心ついた頃にほぼリアルタイムで見ていたので、「そういうことが起こりうる」とは理解していた。
だが、日本で起こるとは思っていなかった。

無力感しかなかった。

気にかかっていたのは水戸の震度だった。
東京ですら震度5なら、震度6はあったはずだ。水戸の父方の祖父母の家はいわゆる古民家で、戦前からの建築だ――恐らく、一発で倒壊しかねない。

新潟の祖父母の家が二度の震度6強にも耐え無事だったのは、建築会社に言われるがままに祖父がリフォームを繰り返して、耐震補強していたからだ。地震以前の親族は「またリフォームして、無駄遣いだよ」と愚痴っていたが、結果として地元の建築会社の謎の営業が奏効したといえる。

当時の水戸の祖父母の家は、土間があり、たいへんおおきな梁があり、叔父が毎日薪を割って湧かす風呂がある、本当に古い建築だった。水戸市にも空襲があったことは把握しているが、市内から大分離れているので、恐らく戦火を逃れたのだろう。どう考えても、戦後の建築様式ではない。
とはいえ貧しかったので、耐震工事をしていたとは思えない。
連絡がつくはずもない。

Twitterに流れてきた大洗の「渦を巻く津波の画像」を見て、蹲ってしまった。(以下のリンクには震災当時のショッキングな写真が含まれます)。


あの家は大洗からは何kmかあったけれど、水戸の中でもかなり海寄りではある。
津波は来なくとも、揺れの被害は免れないだろう。


母と弟が帰ってきた。三人で、テレビに釘付けになった。
何度も何度も繰り返される津波の映像。
だがある時点で、私はきっぱりと
「テレビ消そう。【弟の名前】は小さいから、見ないほうがいい」
と言って、テレビを消した。

父はなかなか帰ってこなかったが、幸運なことに利用している路線すべてがほぼ最速で復旧したので、夜には帰ることができた。
父はマラソンが趣味でハーフの大会に出場できる実力の健脚のもちぬしなので、いざとなれば徒歩で家まで帰れなくはなかった。だが、私は……。もしあと一時間帰るのが遅かったら。徒歩で歩いて帰れただろうか。学校に避難できる距離なら良いが、別の場所に出かけていたら。Googleマップを開いて、しばらく考えていた。

原発の話題。気仙沼の火災。さまざまな情報が流れたはずだが、どんな順番だったか覚えていない。
父は職場の状況に気を配る必要もあったが、当日だったか翌日だったか、「水戸に行く。様子を見て、可能な限り物資を持っていく」と車で向かうことに決めた。

私は止めた。

自分はインターネットが大好きだったので、ある程度マシなリテラシーを有していると思っていたが、愚かだった。
Twitterに流れているデマを信じて「被災地は危険だし、そもそも高速だってどこが通れるかわからない。本当にやめて」と止めた。

父は勤務していた会社ベースで正確な情報を有していたので、「大丈夫」と言っていたが、私は泣いて止めた。
「密が心配してくれているのはわかるし、嬉しい。けれど大丈夫だから、行ってくる」と行って、父は水戸へ向かった。

父は普通に帰ってきた。
私は被災地にいるわけでもないのに、SNSのデマに踊らされていた愚かな自分を本当に恥じた。

祖父母、そして叔父は比較的安全な納屋兼駐車場に避難していた。介護の必要がある祖母は寒がっていたそうだ。即倒壊はしなかったので全員無事だったが、母屋は全壊認定が降り、その後取り壊して新築した。

父の実家についてここまで詳細な記述ができるのは、新築した家には親族の死や病気など、いろいろな事情が重なって、今となっては誰も住んでいないからだ。

我々はときどき、東京から3時間かけて水戸に向かう。空気の入れ換えをして、掃除をして、祖父の神徒壇に手を合わせて、墓参りをして帰る。親族に会えるかはまちまちで、ただ行って、帰るだけのときもある。
本当は神社同様二礼二拍手一礼するらしいが、何故我が家は代々ただ手を合わせているのかはよくわからない。全壊した家の曾祖父母が祀られた神徒壇にお参りするときも、普通におりんを鳴らして手を合わせていたので、正直誰もあまり気にしていなかったのだと思う。

私の3.11はここまで。


2011年当時の家族、しまりすのくるみ。
前年冬に私が海外から戻ったら、いつの間にか家に来ていた。
家の中では私よりかわいがられていた。震災前後はあきらかにおびえていた。
わがままなお嬢様で、ひまわりの種と、苺しか口にしなかった。
くるみは私より早く年を取っていった。
りすとしては大往生で、8年ほど生きた。最後まで、かわいかった。

水戸は今も震災の記憶が色濃い土地であることを、先月の旅で実感した。
梅まつりを受けて常磐神社の義烈館近くの露店で売られていた梅ジュースは、茨城の農産品が放射性降下物による風評被害を受けていたことを受けて開発された。梅そのものは採れるが、加工工場が当時県内になかったとのことで、工場を作るところから始まったそうだ。大洗の梅を使った、ピンクであまいジュース・吉田屋の「露茜」は本当に美味しかったし、沁みた。

2023年2月、つゆあかねの梅ジュース。義烈館そばにて。

旅の途中、水戸駅ビルの家電量販店に寄った。荷物があまりに重いのでトランクを買うか検討したが、「防災用品コーナー」が組まれているのが目に留まった。

水戸では今も家庭用放射線測定器が売られている。

2023年2月、水戸で販売されている家庭用放射線測定器


3.11の翌日、憔悴した様子の学校の担任から安否確認の連絡があった。
「大丈夫です」と答えた。
「学校はどうなりましたか」と問うと、担任はこう答えてくれた。

あの瞬間まで学校に残っていた生徒は帰る手段を失った。復旧した路線も一応あったので、その日のうちに帰ることができた生徒もいたが、教師とともに一夜を明かした生徒もいた。椅子を寄せ合ってベッドにして、なんとか寝た。片桐さんはよく寄り道をして帰るから、個人的に心配していた、と。
なんとか帰れました。運が良かったです。と答えた。

学校に残っていた先生のひとりに、浪江出身の方がいた。ご実家だった場所は帰宅困難地域に指定されたと仰っていた。その年の文化祭で、先生のクラスの生徒たちは浪江焼きそばを作っていた。卒業後Facebookで繋がり、今も先生が東北に携わりながら、別の学校で教えていらっしゃることを知っている。

震災から一週間後。ひとまず今後のことを考えなければと思った。
毎日学校に行くために、学校から五分で通って授業と自習ができる予備校を選んだ。
そこで幸運にも、恩師と呼べる個別指導の英語の先生に出会った。とても優しい先生だったが、冷静に考えるとかなりスパルタだった。

週200単語、Target1900に掲載されている全ての意味を覚えてくるのが宿題で、ひとつでも落としたら「何かあったの?」と優しく詰められたので、先生を悲しませたくなくて必死こいて覚えた。
一通り入ったところで、週二回センター試験と模試、予想問題集を毎回回し、恐らく30回分は解いた。
授業では文法を中学から叩き込み、半年後にはセンター9割を安定して取れるようになり、もっと上の問題集へ進み、五校の志望校すべてに普通に受かった。受験英語しか入っていないので、大学に入った後はリスニングとスピーキングに苦しんだし、今も普通に苦しんでいるが……それはそれ。

担任の先生は古典をおもに教えていた。中学から不登校だったので当然文法など頭に入っていなかったのだが、学校の授業だけで古文・漢文全てをたたき込み、予備校の授業を追い込みの冬季講習以外なにも受けずにすべて受かったので、ちょっと自慢した。

まあ実のところ、私は担任のことが三者面談の時点で恋愛的に好きだった。不登校を克服したのも「先生に会いたいから」というバカの理由である。

私がずっとバカの片思いをしているのは学校にいる人間全員が知っていたので、第一志望に受かった翌日告白して、玉砕した。生徒からのバカの告白を断る教師だけが良い教師だということを、大学に入って塾講師を始めて、即悟った。

フラれたけど、まあ志望校には受かったしいいか……と空き教室でさめざめと泣いていると、英語の先生が「片桐さん、もしかして……」となにかを察して、慰めてくれた。
卒業して数ヶ月後母校を訪れたとき、その先生は退職していらした。担任の先生と婚約したのだそうだ。

このエピソードトークはあまりにあるある過ぎるので、教師をやっている友人に話すと、今でも飲み会で毎回ひと笑い取れる。

日本史Bはかなりギリギリだったが、なんとかセンター試験当日の早朝に「これ全部入ったな」と思って、高校のブレザー制服ではなく、なけなしのこづかいをはたいて買ったJane Marpleの別珍のドレスを着て受験した。

制服だらけの空間の中で一人ロリィタを着れば何らかの効果が働いて、周りの平均点が下がるのではという破滅的なバカの発想だったが、おしゃれをして本番に向かうと存外冷静になれると思った。

100点だった。

自宅のPCで予備校が出した予想回答の丸付けをして、いくら進んでもひとつもミスがないことに対して逆に恐怖を覚え始め、結局最後まで正解だったため、悲鳴を上げた。12月中旬まで6割だったのに。
悲鳴を聞いて親は「あっこいつ落ちて気が狂った」と直感したらしい。
逆である。

そんなわけで、私は3.11の翌年に、晴れて現役で大学進学することができた。
2011.3.11があったために、卒業式が出来なかったOBOGがいた。3.11が春休みに被っていたため、ボランティアを続けた先輩たちがいた。

あの震災を乗り越えて、私たちは大学で学び続けた。
今も、私は学び続けたいと思っている。

わたしは思い出す。
思い出しつづける。


2023年2月、水戸偕楽園の梅

おわりに

この記事は水戸芸術館で2023/2/18~5/7開催の展覧会「ケアリング/マザーフッド:「母」から「他者」のケアを考える現代美術―いつ・どこで・だれに・だれが・なぜ・どのように?―」内の

AHA![Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]による展示
「わたしは思い出す 10年前の育児日記を再読して」2022年、デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)を鑑賞して、執筆しました。


AHA![Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]による展示「わたしは思い出す 10年前の育児日記を再読して」,2022年,水戸芸術館にて筆者撮影。

震災や津波でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたします。
被災者、そしてご遺族の方々には心よりお見舞い申し上げます。

親族が水戸で被災したひとりの東京の人間として、あの日を忘れずに生きていこうと思っています。

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