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「出会ってしまった」にめぐり合うために。

素晴らしい人生が歩めるよう、打算的でないまさに偶然の出会いにめぐり合えることを、切に願っています。

高校を卒業する間近、配られた文集に書かれていた担任の先生の最後の言葉だ。当時はとりたてて気に留めることのなかったこの一文に、なぜか最近ひどく心を奪われた。

打算的とはすなわち、何をするにも損得を考えて行動をすること。

思えば、高校を卒業するまでわたしたちの周りには「打算的でない」出会いで満ちていた。

学区であらかじめ決まっている学校、勝手に振り分けられるクラス、くじ引きで決定する席。
そこでわたしたちは、「打算的」という概念すら知らずに、まさに「偶然」の出会いでつながってきた。まあもしかしたら、無意識のうちにほんのちょっぴりの打算はあったのかもしれないけれど。(あの人かっこいいから仲良くなろう、とかね)

ところが、大学に入って就活を間近に感じ始めたあたりから、常にどこかに打算のにおいがまとわりついていることに気がついた。

「あの人とつながっておけば、将来何かいいことがあるかもしれない」
「あの界隈では有名人だから、今のうちに仲良くなっておこう」

もちろん、そうやって人脈を広げていくことは悪いことじゃない。むしろ社会人としては必要不可欠なことだとも思う。かくいうわたしも、こういう打算的な下心をもって、つながりを作ろうと必死だった。正直、ここ最近の自分もそうだ。

でもたぶん、いつもどこかで無理をしている。必死になればなるほど、なんとなく後ろめたい気持ちになってしまうことがある。

すこしずれるかもしれないけれど、恋愛においても似たことを考える。

合コンはもとより、マッチングと名前を変えた出会い系サービスが増加し、「恋人を作りたい」「いい条件の人と出会いたい」という目的を持った者同士が簡単に出会える世の中になった。

偶然の出会いを待つよりもはるかに効率がいいし、今は技術も進んで自分の性格を細かく分析したうえで最高に相性のいい相手とマッチングすることだってできる。 
でもやっぱり、どうしてももやもやとした違和感が頭と心を支配する。

そういったものを全否定するわけじゃないし、もちろん幸せになったカップルだってたくさんいるのだろうけれど、打算から始まった恋にメリットがなくなったとき、いったいどうなってしまうんだろう、と勝手に不安になる。

この世の中で上手に生きていくには、少なからず打算的であることが必要で、そうやってかしこく成功している人たちもたくさん見てきた。でも。

「偶然の出会い」には、何かが少しでも違ったら出会わなかったふたりが、「出会ってしまった」からこそ、想像もできなかった感情の揺らぎがあるのだと思う。

損だとか得だとか、お金持ちだからとか、有名だからだとか、そんなことを抜きにしても相手を大切だと思うこと。もしかしたら相性の良さなんて40%くらいかもしれないけれど、あの時出会ったことを心から幸せに思えること。
そこにあるのは、自分が何かを得ようということよりも、相手のために何かしてあげたいという利他の気持ちなのかもしれない。

そしてその結びつきは、不思議といつまでも絶えなかったりする。長い間連絡を取っていなかったとしても、ふとしたときに、たしかに自分を支えてくれる存在になったりもする。

誰かとの出会い方に優劣なんてつけられるものじゃないけれど、そんな曖昧で強い結びつきにわたしは大きな価値を感じるし、自分の人生を豊かなものにしてくれているんだと、今心から思う。

高校を卒業するタイミングでわたしたちにこの言葉を贈ってくれた先生は、何歩も先に人生を歩いているぶん、分かっていたんだろう。
この先たくさんの打算にまみれながらも、人生を素晴らしいものにしてくれるのは結局「偶然の出会い」であるということ。そして、そういう出会いを引き寄せることができるかどうかも、自分次第だということを。

先生の言葉のおかげで、ここ最近の自分の偏った頑張り方を見つめなおすことができた気がした。偶然の出会いにめぐり合えるように、そしてめぐり合えた誰かを大切にできるように。

#エッセイ #コラム #つぶやき #出会い #日常


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