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なぜ三角関数を教え、学ぶ必要があるのか?

どうも、largehillです。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。
今回から本格的に書いていきますよお~!

三角関数vs金融教育

最近、「三角関数を教えるくらいなら金融教育をもっと充実させた方が良い」とつぶやいた政治家のツイートが話題になっているのをご存知でしょうか?
当たり前かもしれませんが、賛否両論でTwitterでは論争状態になっているようです。
以前にも「古文や漢文なんて大人になって使わないんだから、他の内容をやるべき」という話もネットを中心に議論になりました。

この手の話題、時おりトピックに上がりますよね。
やはり中学・高校と自分の好き嫌い、得意不得意に関わらず様々な教科を学んできた(あるいは学ばされてきた)多くの人々が疑問をいだくのでしょうか?
このような学校で学ぶ知識に関連して、教育社会学の世界には「後発効果」という概念があるそうです。
教育社会学の講義で聞いて以来、この手の話題を聞くたびに思い出します。

「後発効果」とは

後発効果とは、後発国において学歴社会が形成されやすい理由を説明する仮説とされています。

【後発効果】R.P.ドーアが『学歴社会』にて提示した仮説。近代化の努力を開始する時点が遅ければ遅いほど,急いで先進国に追いつく必要性が高くなり,いわゆる上からの近代化を推し進めようとする。その結果,学校は立身出世ルートの象徴となり,後発国ほど学歴にとりつかれてしまう。

Twitter 教育社会学用語bot(@Socioeduca_bot)

この理論はドーアが日本とイギリスの教育を比較して生み出されました。
イギリスを代表とする早い時期から近代化が進んでいた国では「学校」とはいわゆる中産階級の子どもたちが学ぶ場所でした。
イギリスのパブリックスクールがこれにあたります。
ここでは古典や数学などが論理力や推理力、記憶力といった能力を育てるため、あるいは中産階級の人々が共有すべき教養として教えられていました。
そのため、古典や数学・歴史などを知ることは「善き人間(=中産階級の一員)」となるために必須だったのです。

それに対して日本はというと…。
日本など遅れて近代化しようと試みた国々では、イギリスをはじめとする先進諸国に追いつき追い越すために、彼らが用いている技術や知識を直接取り入れようとしました。
「学校」とはヨーロッパ由来の知識や技術を学ぶ場所として設定されたのです。

後発効果と「三角関数」論争

では、この話と「三角関数」論争がどう関係しているのか…。
それは

近代日本の学校で学ばれた、教えられた知識がどのようなものであったか?

という問いにたどりつきます。

近代日本ではヨーロッパ由来の「知識」を学ぶことで学歴を獲得することができました。
この“ヨーロッパ由来の「知識」”とは「誰のものでもない教養」と言い換えることができます。
近代以前の日本で教養とは儒学や朱子学といった学問を指しました。
こうした学問を学べたのは武士だけです。
つまり前近代の日本では儒学を知ることは「善き武士」となるために必須だったわけです。
ということは、持っている知識・教養で身分が固定されることになります。

ところがヨーロッパから輸入した三角関数などの知識は、日本人にとってはほとんど初めて触れる知識。そのため、身分による教養の差が生まれないのです。
ということは、ヨーロッパ由来の知識や技術を学べば、四民平等となった近代日本で成功するチャンスが与えられたということになります。
だから多くの人が「ヨーロッパ由来の知識=誰のものでもない教養」を武器に学歴獲得競争へと乗り出していくこととなったのです。

この考え方は「勉強して良い学校に入れれば良い会社に就職でき、安定した生活ができる」という社会であれば抵抗なく受け入れられます。
「なんで勉強するかは分からないけど、とりあえず良い大学に入るためなら」と考えるわけですね。
ところが現代日本ではそうした考え方はもはや終わりを迎えていると言って良いでしょう。
そうなってくると「学ぶ意味」が見失われます。
昨今の「三角関数」論争や「古文漢文」論争の本質はここにある気がしています。

「受験のため」「社会的上昇のため」の勉強が
以前より意味をなさなくなってきた現代社会において、
人々はそれぞれの学習内容を学ぶ意味を求めている―。

これが一連の議論をめぐる私なりの解釈です。皆さんはどう思われますか?

なぜ三角関数を教え、学ぶ必要があるのか?

さて、ここまで後発効果という概念から一連の議論について考えてみました。
この問題は私たちに学校で学ぶ知識の意味について問いかけています。

なぜ三角関数を教え、学ぶ必要があるのか―。

この問いの答えは人によってさまざまでしょう。
しかし1つ言えるのは、学校の先生はこの問いに答えられないといけない、ということではないでしょうか。

私自身は社会科教育が専門ですが、社会科でも全く同じことが言えます。
●なぜ行くつもりのないアフリカのことを学ぶ必要があるのか?
●なぜ大昔の、狩りをしていた時代のことを知る必要があるのか?
●なぜ私たちに馴染みのない国際連合のことを知らなければいけないのか?
などなど…。

教育学の世界では「学習の有意味性」のことを「レリバンス」と言います。
今回の、いや昨今の「学校で勉強したことなんて意味がないのでは?」という問題提起は学校現場が子どもや社会のレリバンスに対して十分に答えてこなかったことの裏返しなのかもしれません。

なぜ私たちは○○を教え、学ぶ必要があるのか?
この問いに教師や教師をめざす学生は答え続けなければいけませんね。
また教師になるつもりのない方々も問いかけ続けてほしい、そう思います。

【参考文献】
・苅谷剛彦(2011)「Works Book Café 名著を大いに語る『学歴社会 新しい文明病』」『Works』108号、リクルートワークス研究所


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