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1人の寂しさと2人の寂しさ

"二人の寂しさより一人の寂しさの方がよっぽどマシ"

映画「花束みたいな恋をした」でも
似たような台詞を聞いた。

恋愛を何度か繰り返すうちに
二人の寂しさに耐えられなくなってしまった。
私が思うにそれは、
恋愛から抜け出せないことによる弊害。
20代半ばになり、
結婚という言葉が具体的になってくる中で、
恋愛から結婚への移行ができないで、
システム調整中としながらも彷徨っているような感覚。

自分の中で、次はこうしよう、ここは擦り合わせよう
そうやって試行錯誤しているつもりの恋愛でも
誰とどう続いたところで、
最後に感じるのは似たような寂しさだった。
なんだ、私、次こそはと思ったのに
結局は別れるまでの遠回りが上手くなっただけ。
山手線から降りられないでいるような
大気圏に突入する前に燃え尽きてしまうような
きっと本当に変わらなければいけないのは
私自身の潜在意識の中にあるような根源的なもの。

お互いが同じ想いだと信じて疑わないその時が
どれほど奇跡的で刹那的ものなのか忘れてはいけない。

私が感じる寂しさは一人の時なら
救いようがあるように感じる。
行動次第であったり、意識次第に思うからだ。
学生の頃は特に、恋人がいなくて寂しい、
予定がなくて寂しい、一緒に行く人がいない、
周りは恋人がいて、サークルに入ってて、
部活があって、予定が忙しそうで、とか。
人と比べるから寂しい。
何かと比べて、自分にはそれがない。
だから寂しい。寂しいと羨ましいは似ている。

だけどその先にあるのが、
その条件が揃った後に待ち受けているのが
二人の寂しさだ。

二人の寂しさって、
ある程度人間関係や傷つくことに
疲れていないと感じないのかもしれない。
一種の諦めのような絶望だと思っている。
盲目になれていれば絶望だなんて思わない。
片目を開けてしまっている状態故なのだろうか。

彼氏もいて、予定もあって、一緒に行く人もいる。
だけど感じる虚無感や寂しさは、
かつて共有できていた想いや感情が
もう共有できなくなってしまったから。
取り残されてしまった側が感じる寂しさ。
面倒くさいとか重いとかいう言葉が
相手から出てきた時にはもうそこにいる。

一人の時に感じていた、
彼氏がいる人はいいなあよりも
彼氏がいる時に感じる
あのカップルはいいなあの方が
より強い寂しさや孤独を感じる。
たしかにそれも意識次第というのは変わらない。
だけど一人の時の行動次第と
二人の時の行動次第は意味合いが違ってくる。
相手の意識と言動を変えてもらえない以上は、
私自身がどう変わろうと妥協と惰性でしかない。

言って変わってもらった所でやらされてる感
ああまたかって顔した、
めんどくさいって思ったでしょ
次会える日、私の予定、
そういえば話題とか提案いつも私からしてるなあ
暑い寒いお腹すいた眠い、会話の内容薄いな
最近スマホばっかり見てるな
あ、もう帰っちゃうんだ
寂しいって言った時、寂しいに共感してくれない
寂しくなったらいつでも言ってって
その言葉がもう寂しいな

恋愛における寂しさは相手への期待でもある。
でも、期待しなくなってしまったら寂しいな、
恋愛にときめきを求めなくなってしまったら寂しいな。

そう思うと私はちゃんと恋愛できている。
わかりきった繰り返しに
いちいち期待をして、希望をもっている。

この歳になってもよく勘違いしてる人がいる。
恋愛が向いていないんじゃないよ、
恋愛しか向いてないんだよ。

結婚は恋愛の延長線上にあるものだと思わない。

段々と寂しくなる人を選ばなくなる。
段々と寂しくなる程
人に期待したり、依存したりしなくなる。
恋愛したい人から共生したい人を選ぶようになる。

きっとその時には、寂しさを飼い慣らしている。

本当は一人でも生きていける、一人でも幸せになれる。
だけど、二人の方が楽しいね。

そういう揺るぎない一人の人間としての強さ。
そこから生まれる余裕。
そうして、感じることが少なくなっていく寂しさ。

人とも感情とも上手く付き合っていくしかないねって
絶望しすぎず、期待しすぎずに、そう思う。

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