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ブラジルと日本、共に名門でプレーしたが消えてしまった若者の真実

はじめまして。


現在24才、東京で障害福祉の仕事をしています。

田舎出身の僕には東京の空気は息苦しく、

現実逃避したくなりながらも、

20代のうちは基盤を作る為、と割り切っています。

そんな僕が今まで全力を注いできて、

今回のテーマでもあるスポーツ、

それが「サッカー」です。

最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

僕のサッカー時代のお話し。

僕は、小学2年生頃の時サッカーを始め、まぁ、最初は何が何だか分からずひたすらボール蹴っていた感じだった。そんな感じでも子供の成長は早く、だんだんと思い通りにボールを扱えるようになっていく。そうなってしまったらもう楽しくて楽しくてたまらない感覚になる。できない技ができた時、自分がイメージしていたプレーができた時、本当に嬉しく夢抱いていた少年時代。

中学時代は地域のクラブチームに所属していたが、特に選抜など選ばれることもなく無名の選手だった。僕は純粋にサッカーが好きで、別にプレー出来ていれば楽しいし、それでいいと思っていた。昔の記憶をすぐ忘れる僕が、中学時代のことで覚えているのは、対戦相手の監督に「まるでサーカスだね」と言われたこと。サーカスって面白い言い方するなって印象に残っている。

ドリブルが大好きだった僕は、中学を卒業したらブラジルへ行きたいという強い意志があった。何故、ブラジルなのか?理由は単純で欧州で活躍しているドリブラーは南米出身、特にブラジルが多かった。ただ一番はネイマールに強烈な憧れがあったことだと思う。もし今のようにSNSが発展していたら、ブラジルなんて危ない国に行こうなどとは思わなかっただろう。親がなんて言うか不安を抱えながら相談した。

すると「いいよ行っておいで」と。

親は、「かわいい子には旅をさせよ」という昔の言葉を大事にしていたみたいですんなり受け入れてくれた。若い年で海外を経験させてくれた親には心から感謝している。

そして、中学を卒業し、ブラジルへ行くことに。

ドイツ経由片道30時間以上の道のりを、日本語しかわからない15才の少年が1人で行くわけなんだが、今考えると凄いことしてたなと自分ながらに思う。ブラジルでの1年目は上手くいかないことだらけで辛い時期だった。言葉、生活、食べ物、環境と全てが違う。15才のまだ日本すらそんなに知らない若造が、そんな環境に身体一つで飛び込んだらそうなるだろう。それでも、パルメイラスというブラジル1部リーグのユースセレクションの三次まで合格したり(主催者側が急遽セレクションを中止)、自分なりにもがいていた。ただ、若いからこそ吸収は早く、環境には慣れてきた

2年目のある日、

コリンチャンスユースの1次セレクションがあると声をかけてもらい、受けることに。コリンチャンスと言えば、FIFAクラブワールドカップ2012優勝したり、ブラジルを代表するような強豪。しかもその頃のユースは「史上最強」といった呼び声があるほどハイレベルなチームだった。ブラジルでの全国大会優勝、スペインで行われた国際大会では、バルセロナ、アトレチコ・マドリードなどのユースチームに勝利。そのチームのセレクションということもあり、受ける選手達は気持ちが上がっていただろう。セレクション当日、グラウンドには100人近いブラジル人がいた。最初は舐めた感じの笑いや、ジャポネースなど馬鹿にしたり、まあ、そんなものは慣れていて何にも気にならない。その反応がプレーで認められれば変わるというのを知っているから、そっちの方が燃える。セレクションは11対11の試合、45分×3セットで僕は一番最初の試合に出た。調子も良く、得点も決め、自分的に感触は良かった。

しかし、30分もたたず僕だけ交代させられた。

その後は試合に出ることなくセレクションが終了。全員集められ、コリンチャンスのスカウトマンが話す。

そして、僕の名前がカタコトで呼ばれる

結果、100人近くいる中で僕1人のみ合格を言い渡された。言うて1次セレクション、コリンチャンスの選手になったわけではない。それでも、「2次セレクション免除のいきなり3次セレクションに来てください」と言われた。3次セレクションは、コリンチャンスの選手達の練習に参加し、実力を見られる。毎週、僕のような3次セレクション生が10名来て、週末には僕以外の10名は落とされるというのを6週間続け合格した。

実質8次セレクション合格ということになる。


僕自身驚きというよりはやっとかという感じだ。だがその後、コリンチャンスに合格するも、18歳以下の外国人選手はプロ契約はできないというFIFAの規定にひっかかってしまい、公式戦に出ることができなくなってしまった。そこから僕に対する対応が180度変わり、今まではスタメン組と一緒に練習していたのだが、契約できないということを知った途端、セレクション生と同じ扱いになった。コリンチャンス側からは、「18歳になったらU20に来てほしい」と言われた。

そんな時、たまたまコリンチャンスに来ていた鹿島アントラーズ育成部長と出会った。

ジュニアの遠征でブラジルに来て、コリンチャンスには視察しに来ていたそう。そして、今の状況を話しチームを探しているという旨を伝えた。

育成部長は「チームを探しているのであればアントラーズでやりませんか」と。日本でもブラジルでも町クラブからスタートし、ブラジルではクラブW杯優勝したチームのユースに合格し、そこから鹿島アントラーズに逆輸入という形で入るとは思ってもいなかった。

この出会いをきっかけに、僕は鹿島アントラーズユースへ入団することになる。

高校3年生での入団は特例だった。それにも関わらず皆温かく迎えてくれ、監督、スタッフ、選手達には心から感謝している。ユースの選手は提携している鹿島学園に通っていた。僕も通わなければならなく、通信制の生徒として全日制の鹿島学園に通った。ただ、歳は高校3年生の代だが、1、2年の勉強はしていない為、1年生のクラスに入り高校生活を送った。高校年代トップのリーグ(プレミアリーグ)だった為、サッカー面はもちろん、こんなにもサッカーは深いんだと戦術についていくのが精一杯だった。他の選手はジュニアの頃から叩き込まれてるであろうが、僕はドリブルしかやってこなかった。それはそうなるだろうと今書きながら思っている。監督は人間性ということを日頃からとても厳しく選手達に言っていた。育成年代でそうやって厳しく接してくれる方に出逢えたことは僕の財産である。正直最初行った時は、ここは軍隊か?と思うほどだった。それでもこの言葉を知り継承しているんだなと感じた。

「献身・誠実・尊重」
「TRABALHO(献身)」
「LEALDADE(誠実)」
「RESPEITO(尊重)」

この言葉は、アントラーズスピリットというもので、ジーコが築き上げた素晴らしい精神だ。今でも僕の軸となっている大切な言葉。改めて素晴らしいチームに関わることができ、僕は本当に運がいいなと感じた。

鹿島でのことはまた別のときに書こう。

鹿島アントラーズ卒団後、

皆は大学へ進学するのが殆どだが、僕はあと2年通信で単位を取らないと高校の卒業認定がされなかった為、社会人でサッカーをやることにした。そこで監督にセレクション受けてきたらと紹介されたのが、千葉県にある関東一部リーグのVONDS市原というチームだ。

そして、セレクションを受け、無事合格した。

社会人チームではあったが、チームメイトは元プロ選手が殆ど。レベルは高く、天然芝、人工芝、フットサルコート、クラブハウス、トレーニングジムと環境は最高だった。そして、VONDS市原の社長は、病院も経営しており、選手は介護施設や病院で働くことができた。環境も良く、働く場所も提供してくれる。僕は特別養護老人ホームで、介護士として働くことになった。やりたくてやっていた仕事ではなかったが、やっていくうちに介護の魅力を知り、やり甲斐を感じていた。

しかし、サッカーでは思い通りにできず、サッカーへの熱が冷めていく。


ドリブルだけには自信があり、どんな相手でも勝負していたが、思い通りにプレーができなくなり恐れるようになった。ボールを受けることが怖いと思うほどに。本当に辛かった。思い通りに扱えたボールが上手く扱えない。あれだけ熱中していたサッカーから距離を置きたいと思うまでになっていた。メンタルが安定していない状態で続けること、J1や海外でのプロなど目指していた目標を達成できるイメージが湧かず、サッカーをやめるという決断をした。

ある時、テレビを見ていたら、「燃え尽き症候群」という症状の存在を知る。
燃え尽き症候群・・・一定の生き方や関心に対して献身的に努力した人が期待した結果が得られなかった結果感じる徒労感または欲求不満。あるいは、努力したあとに生じる虚脱感。

この症状だと思い、心のどこかでほっとした。
「僕はビッグクラブに入って、思い通りにいかなくなり、現実から逃げていた。」ブラジルではコリンチャンス、日本では鹿島アントラーズ。ブラジルでのセレクションでは、パルメイラス、コリンチャンス共にブラジル人の中でも輝くことができた。草サッカーでも活躍し、たまたま観ていたイタリアとドイツの代理人にスカウトもされた。その時はコリンチャンスに合格し、これから契約という時だった為、白紙になったが。

アントラーズでのデビュー戦(流経大柏戦)で、
勝ち越しゴールを決める。
VONDS市原のセレクションでも、違いを見せることができ合格。
頭のどこかで、ビッグクラブに入団することが目的になっていたのだと思う。
そして、入団し満足してしまう。日本人のサッカーへの理解力と技術は、育成年代であればブラジル人よりも高いものがあると思う。ただ、満足してしまう。ブラジル人はサッカーでプロにならなければ生活していくことが困難になってくる。その覚悟が物凄く強い。だから上手く強い選手が育つ。Jユースや高体連では3年間在籍が保証されているが、ブラジルでは1週間で切られる選手もいる。プレッシャーが違う、抱えているものの大きさが違う。そうなってしまった自分を肯定している訳ではなく本当にそう感じた。別にやめてしまった理由など、怪我をした、他にやりたいことができたなどなんとでも言える。しかしそれではまた現実から逃げることになると思いこうやって発信することにした。
これが真実。


ここで僕が伝えたいことは、現状に満足することなく努力し続けて下さい、ということ。うまくいかず辛いことがあったとしても立ち止まることなく努力し続ける。

「生きていれば、辛いこと、逃げ出したくなることもあるだろう。ただ、自分が抱えているその不幸は、他の人からしたら、幸せだということ。」
(一概に全てに当てはまるわけではない、例外もある。)

上手くいかなかったとしても、僕がその環境に居られたことにもっと感謝すべきだった。コリンチャンスの施設で練習できたこと、鹿島アントラーズのトップチームが練習している横で練習できたこと、元プロ選手がたくさんいるチームで練習できたこと。今思うとなんて幸せな環境だったんだろうと思う。自分が抱えている問題なんて本当に些細なことだった。

「無我夢中にやることも大事だが、時間をかけてでも目標を再設定すること、今の自分についてよく考えることが、まず第一にやるべきだ。」

そうすれば上手くいかなくなった時でも、目標を見失うことはない。僕のように町クラブで育った選手にとって名門には強い憧れがある。そういう選手は沢山いると思う。だがチームに入ってからがスタート。目標はその先にあるというのを理解していないと僕の様になる。ときには自分を客観的にみて、自分が現時点で何処にいるのかを考える時間を作ることが大事。そして今の自分に何が必要なのかも考える。そうすることが最終的に目標へ近づくことができるのだと思う。こんな経験をしたが、僕は決して無駄だった過去とは一切思っていない。この経験は自分の財産になっているし、発信することによって誰かに伝えることができればそれでいい。僕は本当に貴重な経験をすることができたし、この経験は一生の宝物。人生において上手くいかないときや、辛いときなどは沢山あると思う。そんなとき僕は、こう言い聞かせている。

「大丈夫、今の自分より辛い人はたくさんいる。ここで逃げ出してもまた辛いときに逃げ出す。そんな人生でいいのか」と。

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その時々で、僕は貴重な経験をしてきました。そこでの出来事や学んだことなど、今回省略したところなどはまた別の時に書きます。これからも色々なことを発信していきたいと思うので読んでいただけたら嬉しいです。

最後まで長々と読んでいただき本当にありがとうございました。

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